わたり終えるか、転げ落ちるか
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■連休初日はぶらり京都へ。これでもかというくらい満喫しました。
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■実際に足を使って見て聞いて嗅いで感じて、というのはやはり良いものですねーぷち足学問気分に。一方で、こうして撮った写真をブログに「記録」することで、「私のなかに眠っていた『記憶』がまたひとつ『記録』へと物質化されてしまったことで、自分の貴重な財産の一部が損なわれ」てしまうのかなぁ、とか…。

 私たちの身体が器の役目を果たしていないということは、「記憶」の問題を考えるときにとりわけはっきりするように思われる。リアルタイム・コミュニケーションにかぎらず、現代的なメディアを経由するいかなる経験も(そしてカメラ機能つきの携帯電話を人々が至るところに持ち歩く今日、もはやメディアの入り込まない経験が私たちの日常に残されているだろうか)ほとんど記憶されない。もちろん、「記録」なら残るだろう。どこかのサーバーや誰かのパソコンに、アーカイブとして。だが、メディアや装置のなかに膨大に残るそれらは、もはや「記憶」ではない。なぜなら、記憶とは私たちの身体のなかに残されるものだからだ。YouTubeがポピュラーになって以来、もはやテレビの懐メロ番組が要らなくなったと感じている人は少なくないだろう。かつて気に入っていた驚くほどコアなシンガーの驚くほどレアなレコードのB面の曲などがアップされているのに出会うと、私の涙腺などはイントロを耳にしただけでゆるんでしまうこともある。だが、それを聴き終わるころには、思い出の一曲に再会できた私の興奮はすでにうっすらと醒めはじめている。気が済んだ、というのではない。それまで私のなかに眠っていた「記憶」がまたひとつ「記録」へと物質化されてしまったことで、自分の貴重な財産の一部が損なわれたような気になるからだ。

文藝 2010年 11月号 [雑誌]露出せよ、と現代文化は言う第四回「コンテンツなき身体、思考なき無意識」:文藝 2010年 冬号
立木 康介

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今年も懲りずにPULSNUG(=@ya_snuggle)の誕生日に、彼の名曲「Loop Pool」をPiano ver.にして贈ってみた!(去年贈ったのはこちら)こういうアレンジでカフェとか、いや放課後の音楽室とかでしんみり演ってみたいなぁと勝手に思い描いていたアレンジでした。(いつもですけど)独りよがりアレンジでごめんなさい。


原曲はこちら。うーんあれだけ聴いてあれだけ弾かせてもらった曲だけど、今聴いてもカッコイイ。
3/14(水)、京都大学百周年時計台記念館国際交流ホールⅢにて行われました、横山俊夫教授退職記念講演会「文明学への道」を拝聴することができました。先生のご研究のキーワードとして、(とりわけ梅棹忠夫先生との違いとしての)「文明」、「安定社会」、「達老(老いることの達人)」、「嶋臺塾」等々が思い浮かびますが、それらのご研究の知見の数々をまさに体現されたような、そんな最終講義でした。前後左右、一歩も動けないほどの超満員の会場の隅っこで身を潜めながら、とても感慨深く、拝聴させていただきました。以下、特に気になった箇所のメモ。

・これから大演説でも始まるんじゃないかというような丁寧な紹介で(会場笑)。
・(壇上に)出て行きにくくなる(会場笑)。
・見渡すと懐かしいお顔ばかり。
・「文明学への道」というタイトルにしました。これには「道」、すなわち「歩み」、そして「足」で考えてきた「足学問」(×耳学問)、「足学問+共同研究」の思いも。
・文(あや)をなして明らかになる。「隔たり」を「媒介」し、「つながる」言語。それは決して“debate”ではない。
・“civilization”は誉め言葉(by 英国使節)だった。「当時のどの国も礼法が社会の一部に極在するが日本は異なるとして、“civilization”の質を高く評価した」。
・英国使節が浅草に来たときの写真。使節を見に群衆が集まるが、きちんと秩序が保たれている。例えば、うるさい子供を注意する人々によって。
・“a school of civility and good manners”「礼儀の良い学校」と評されていた。
この本は…デザインに文句をつけたらまったく…返事がなく、ようやく返事が来た、と思ったら「デザインを熱狂的に支持してくれてありがとう」。

Japan in the Victorian Mind: A Study of Stereotyped Images of a Nation, 1850-80 (St Antony's/Macmillan Series)Japan in the Victorian Mind: A Study of Stereotyped Images of a Nation, 1850-80 (St Antony's/Macmillan Series)
Toshio Yokoyama

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・1970年にインドへ。外から日本を見る。お手元のエッセイをご参照。(※タイトル「忘れものに気づいて戻った旅」という、短いながらもとても先生らしさがにじみ出ているエッセイかと思います。お気に入り。)

 やがて、日本を知りたい一念がつのり、あっさり帰国した。あれから四〇年近い。かつて日本が小規模ながら自足し、文にして明であった頃の暮らしを日本語や英語で綴ってきた。ペンをとるたびに思うのは、かの村人たちの問いかけである―ナニヲ考エテイマスカ、と。今も私の日本研究は、外国の人にも静かに語れる自国像を求める姿勢のままである。

・バブルのまっさかりに「安定期」の研究。「安定期」=「停滞」と見なされ、こんなに景気が良いのに何をやってるとバカにされた。
・手術中の外科医のやり取りのような言葉や、“debate”のような言葉ではなく、日常の言葉で語りたい。

ことばの力: あらたな文明を求めてことばの力: あらたな文明を求めて
横山 俊夫

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二十一世紀の花鳥風月―熱き風流を語る二十一世紀の花鳥風月―熱き風流を語る
横山 俊夫 松井 孝典

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貝原益軒―天地和楽の文明学 (京都大学人文科学研究所共同研究報告)貝原益軒―天地和楽の文明学 (京都大学人文科学研究所共同研究報告)
横山 俊夫

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最後に1つだけ思い出小噺。先生のご研究のキーワードで、とりわけ当時気になっていたのは「達老(老いることの達人)」にまつわる様々なテクスト。先生に「私も達老になりたいのですが…」と相談したところ、「うむ、君には結構その素質があるね!」と言われ、一瞬喜んだのですが、「ただし」と少し間を置きまして、「4回勘当されるくらいの経験がないとダメだね」と。それ以来、「4回勘当されるくらいの経験」ってどういうこと?そもそもなんで「4回」?を問い続ける日々です。先生、答えがわかったら、いつかお伝えに伺います。それまでどうぞ、お元気で。
<関連>
フォーラム新・地球学の世紀 by 横山俊夫:2011年4月号 WEDGE(ウェッジ)

自説をそれとなく周囲に伝え、そのうちの誰かが同説を自論として語るようにしむけてホホウと耳を傾ける品。他人がだましに来れば、嘘と知りつつナルホドとうなずき、だましおおせたと得意気に去る人を見送る品。さらには、何事を聞いても疑わずに真実に受けとめる「大秀品」。社殿のご心境のごとく、向き合う者は慎む。

IPPONグランプリ見ました。決勝戦は「着信御礼!ケータイ大喜利」VS「大喜利猿」。今回はジュニアさんに軍配でしたね。前回と違って(前回の反省があったから?)、おそろしく決勝戦らしい決勝戦でした。バカリズムの2問目の答えも見たかったですが。
着信御礼!ケータイ大喜利着信御礼!ケータイ大喜利
今田耕司 板尾創路 千原ジュニア NHK「着信御礼!ケータイ大喜利」制作チーム

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大喜利猿 優勝大喜利猿 優勝
小林 賢太郎 升野 英知

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■オススメいただきました「Quiet Inlet」。うーんとってもエレクトロ!カッコイイです。一方「Rio」はピアノがっつり2枚組ライブ!ちょっと最近ピアノの音に飢えてまして。
Quiet InletQuiet Inlet
Food

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RioRio
Keith Jarrett

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■この箇所がとても気になったのでメモ。合評会が楽しみ!

記憶を失った「赤ん坊」としてのマルチチュードだけが、君主政国家を「喜んで」作り権力の出自を忘れてしまえるほど「自由」であり、民衆の力を削ぐことも抑えつけることもない国家を作ることもできる。

革命論 マルチチュードの政治哲学序説 (平凡社新書)革命論 マルチチュードの政治哲学序説 (平凡社新書)
市田 良彦

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昔々、「嘘」について何か書こう、としたら、「理想の女子」について書いてしまいました、というお話。

 話題も尽きてしまって、そろそろ電話を切る頃かなと思ったちょうどそのとき、急に思い出したかのように彼女はこう言う。

 「ねぇ、飛ばすとその周りに綿菓子ができていく竹とんぼがあるのよ。昔はそれを飛ばして遊んでは近所の子たちとその綿菓子を分けて食べたものよ。今度あなたも一緒にそれで遊んでみない?」

 僕は少しだけ間を置いてから、こう切り返す。
 「そんなこと言ったら僕だって、乗っているうちに綿菓子ができていく竹馬でよく遊んでいたよ。町内なんて一周したらさ、近所の友だちみんな行列作って僕の後について来るんだ。あれは良い眺めだったよ」

 彼女の方は全く間を置かずに、とても明るい声で僕に提案する。
 「じゃあ今度、一緒に遊んでみようよ。竹とんぼと竹馬で」
 「いいよ」
 僕は意識して即答する。
 「場所は多摩川のほとりでどう?」

 言うまでもなく、僕は嘘をついていた。もちろん彼女も嘘をついていると思ったから、適当なノリで流そうと思ったのだ。僕はその時二人の間で交わした会話を、「嘘を冗談として、冗談のまま楽しむことができる仲になってきた」というふうにしか解釈しなかった。話すことがなくなったら、たとえ嘘でも話題をこしらえる。そういうのも決して悪くないじゃないか。

 僕はベッドに入って眠りにつく前に、綿菓子ができていく竹とんぼと竹馬のことを少しだけ想像してみた。飛んでいるうちに綿菓子がまとわりついてくる竹とんぼはともかく、竹馬の方は、乗っている人の手足がねとねとしてくるだろうから、結構気持ち悪いだろうな。

 僕は思わず、手足がねとついていないことを布団の中で確める。大丈夫、ねとついていない。

 僕は彼女が、竹とんぼの嘘に対してどのようなオチを付けてくるのかを予想しつつ、その一方で自分がついた嘘に対するオチも考えた。まぁ、このあたりで良いだろうというアイデアが思いつくと、急に眠気が襲ってきた。そのとき、僕は体中にまとわりついた綿菓子をシャワーで落とそうとしている夢を見た。


 翌週の土曜日、約束の場所に十分ほど遅れて到着すると、彼女はすでに川辺にいて、そして彼女の頭上には、ふかふかの綿菓子がくるくると回っている。まるで今日の完ぺきな青空の中で唯一、場違いにも浮かんでしまった一片の雲のように。

 やがて落下する綿菓子を慣れた手つきでキャッチする彼女は、土手にいる僕の姿を確認し、こう叫ぶ。
 「遅かったじゃないー!」

 僕はバトミントンセットを片手に、本来言うはずだった言葉をごくりと飲み込み、ただその場に立ちすくむ。

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