わたり終えるか、転げ落ちるか
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5/25(金)細見美術館カフェキューブにて行われました「誘惑論・実践編~草食系男子にお勧めする目からウロコのナンパ哲学~大浦康介先生による一晩だけの講演会」に行ってきました。大浦先生の講義+「誘惑」「ナンパ」に興味のある(主に草食系男子による)ディスカッション。なかなかに得がたい体験でした。
誘惑論・実践篇誘惑論・実践篇
大浦 康介

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講演の対象本の「誘惑論・実践篇」はもちろん読ませていただいており、今回の講演会では、先生のご専門のフィクション論と関連しそうだと思い、以前から気になっていた「文学をいかに語るか」と「西洋のフィクション・東洋のフィクション」を予習的に読みました。

 フィクションは一方で、さまざまなフィクション装置をつうじて、「これはフィクションであり、現実ではないので、間違ってもこれを本気でとったり、訴えたりなどしないでほしい」という意思表示をするわけだが、もう一方で、作品全体をつうじて、「これは現実であって、わざとらしいつくりものではない」と主張する。この一見矛盾する二つの面を備えているということが、ここでのフィクションの定義の最後のポイントである。
 もちろん矛盾は表面的な矛盾にすぎない。フィクションがみずからを「現実である」というときの現実とは、ふつうの意味での現実ではない。「事実」よりも「真実」に近い意味での現実である。それは現実の幻影かもしれないが、理想的には現実以上に現実的であるはずのものである。文学についてよく言われるリアリティとか迫真性というのは、このこと以外ではない。

文学をいかに語るか―方法論とトポス文学をいかに語るか―方法論とトポス
大浦 康介

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現実ではない」のに「現実以上に現実的である」という「一見矛盾する二つの面を備えている」「フィクション」。この「矛盾」を自在に操るのに長けた(または「矛盾」を「矛盾」と考えない)人がナンパ(師)、ではないか、と思いました次第。一方で、

…フィクションは日常生活のなかにもさまざまな形での演技や「ふり」として生きている。それをフィクションは日常生活のなかにもさまざまな形での演技や「ふり」として生きている。それをフィクション行為と呼ぶことができるとしたら、フィクション行為は、ホントウのことを言うことが求められウソが厳しく罰せられるこの重苦しい世界にあって、つかのまのオアシスとしてあると言えるだろう。あるいはそれを、社会という「牢獄」に閉じ込められて生きている人間のきわめて人間的なひとつの知恵、そこで生き延びるためのひとつの技法だと考えてもいいかもしれない。

つかのまのオアシス」を誰よりも切実に求めるがゆえに、「きわめて人間的なひとつの知恵」「生き延びるためのひとつの技法」としてナンパを繰り返すのもナンパ師。それには「あやうい均衡」が伴うにも拘らず…ううむ。
<関連>
私小説とフィクション - 西洋のフィクション・東洋のフィクション : 国際シンポジウム(大浦康介編)

…ただ<わざ>と<わざとらしさ>は紙一重である。小説家のアートも、役者のそれも、あやうい均衡の上に成り立っているのである。

事前に私が思ったのは「つかのまのオアシス」が報酬として期待できるとは言え、代償として「矛盾」や「あやうい均衡」を抱えることは、(とりわけ草食系には)ハードルが高いのでは、ということ。このあたりのヒントをお聞きできれば。さぁ、素敵な夜会の始まりです!以下気になった箇所のメモ。

・この呼び名(=草食系)について。
・決してほめ言葉ではない。
・世の中は(積極的に)草食系男子を作り出そうとしてきた。のにマイナスのネーミング。
・草食系男子は原則いない(いるなら草食系女子もいるはず)。
・(今日のイベントについて)女性からのオファーがあったことが嬉しかった。
・(「誘惑論・実践編」は)男性/女性で読み方が違う。ネットで反響を見て思った。
・なぜ「落とせる」か→モテる奴・モテない奴はパッと見てすぐわかる…が言葉にならない→それを言葉にしたかったのが「誘惑論・実践編」。
・草食系男子は…さすがにモテるようになるのはムリ。但し、ステップアップは可。
・ナンパから始まるAVに興味。ウソ八百から始まって、最終地点に至る…そこまでの水面下のコミュニケーション。
・「誘惑論」に期待することは何か?何があるだろう?
・抑制のきいた性とのかかわり。
・豊かなセクシュアリティの不在。無性的(アーセクシャル)ということ。
-----ここから「誘惑論・実践篇」の抜粋を元にコメント-----

そうやってしかけ、敵を「のせる」わけです。誘惑の場合も相手の構えのすきを衝くことが肝要です。

→街で声を掛けられまくる女性は、隙だらけ(を演出している)。

正面切ってイエスかノーかを答えるよう求めるのは心理的に無理があるんです。

→インフォームドコンセント/フェアプレーは、時として相手に負担をかけてしまう。誘惑上手はその負荷を軽減する。

口説き文句なんて九割がたファティックでいいんです。コンタクトを成立させ、それを維持することが先決ですから。それにファティックな言葉は、意味が薄いぶん、話しても聞き手もいろんな意味をそこに重ねることができる。

→あいさつ言葉(つなぎの言葉)の重要性。とにかくつなぐ。意味のある発言なんて2割もあれば十分。

…とかく説明過多でね。自分で意味の小さな円を描いて、とにかくそれを埋めよう埋めようとする。―中略―横で女の子はあくびをしているにきまってるんですよ。

→説明はいらない。聞き手になりなさい。

誘惑者が卓抜な聞き手であるのは、彼らが相手の向かいそうなポイントに「空所」を設けることができるからです。その「空所」に相手をうまく誘導することができるからです。

→空所を設けられる、意味の薄い会話のバリエーションを、たくさん持つことが大切。

エンマ・ボヴァリーの不幸は「被誘惑者」を演じられなかった女の不幸です。

→誘惑を「真に受ける」ことの不幸。真に受けず、距離を取って、誘惑は楽しむべき。

最後の「楽しむべき」というお言葉にも現れていますが、先生を含め、会場にいらしたナンパ師の方々(!)も、とにかく「矛盾」や「あやうい均衡」が楽しい、とのこと(理由はそこに待っている「非日常」に興奮するのだ!とも)。うぅ、やっぱし草食系にはハードル高いス。でも、それがとにかく「楽しい」人を目の当たりにすることは、普段あまりない体験ですので、そういう方々とテーブルを囲んで議論できたのは、とても貴重でした。

あぁ面白かった。写真は会場へ向かうときに撮ったもの。あのワクワク感が何となく表れてる気がします。
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