わたり終えるか、転げ落ちるか
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
■『ap bank fes’10』DVD発売決定!HMVの紹介ページによると、Bank Bandの曲ががっつり入るっぽい!うれしい!

■読み始めたのはだいぶ前だったのですが、ようやく読み終えました…が、僕にはかなり難しかったです。何だか一文一文の濃度が濃い、と言いますか、求められる予備知識が多いような、という印象があったのですが、あとがきの「結局、本書にするまでには草稿を削っては埋め、埋めては削りながら五分の一程に圧縮するという無間地獄に陥ったような当て処もない作業に長大な時間を取られることになった」という記載に大いにナットクしました(もちろん、僕に予備知識がなさ過ぎる、というのもあるのですが…)。とは言え、この五倍の分量の言わば幻の「完全版」が存在するんだなぁと思うと…ちょっぴり残念です。読んでみたい。あと、本書でいちばん印象的だったのが、『第1章「世界大戦」という名づけ』の下記の記述。「その戦争の本質からして「世界戦争」に他ならないと見たのは」「日本人であ」り、そしてそのように見た背景としての「一つの世界という空間感覚」。むむぅ。

 ここには日本がアジアのみならず世界の強国としての責務を負っているとの自負が表明されるとともに、国民一人ひとりが全人類の一員としての責務を自覚することが日本国民の任務であるという認識が戦争を契機として出現していたことが明示されている。世界が一体化しつつあるがゆえに戦争は世界化せざるをえないし、戦争が逆にまた世界の連関性を更に強めていくのである。世界が戦争という事態の下で一つとなり、あるいは世界が一つであることが戦争という現実によって可視的に捉えられるに至る。もはや世界を動かす主体は欧米だけにとどまらない。こうした一つの世界という空間感覚というものをもたらした点に第一次世界大戦の「世界大戦」たるゆえんがあるが、それは逆にまた「世界平和」を創り出すのもまた全人類の一員たる個人の責務であるという主張を生み、そのいずれもが大正の新思潮として広がっていくことになった。

複合戦争と総力戦の断層―日本にとっての第一次世界大戦 (レクチャー第一次世界大戦を考える)複合戦争と総力戦の断層―日本にとっての第一次世界大戦 (レクチャー第一次世界大戦を考える)
山室 信一

by G-Tools

■4/18(月)、京都大学春秋講義『レヴィナスの「顔」-倫理と他者の現れ』(佐藤義之教授(人間・環境学研究科))に行ってまいりました。レヴィナスと言えば、内田樹先生の「レヴィナスと愛の現象学」「他者と死者―ラカンによるレヴィナス」くらいしか読んだことがなく、少々(いやかなり)不安だったのですが、大変わかりやすく説明してくださり、レヴィナスの「顔」について、さらには内田樹先生がどうしてレヴィナスを師と仰ぐのか、についても、僕なりに少しわかったような気がしました。

以下いつもの殴り書きメモ。

・倫理(道徳と言い替えても可)に従うのは、そこに「利害」「報酬」があるから、に尽きるのでは?まさに「情けは人のためならず」、と言ったような。
・いやいや、100%そうではないでしょう。
・そこに「利害」「報酬」がなくとも、「義務」を感じてしまうときがある。
・例えば、目の前にうずくまっている「他者」がいるとする。あなたは「大丈夫ですか?」と声を掛けたり、場合によっては救急車を呼ぶでしょう。別にその人は「あなたのせいで」うずくまっているわけではないのに。
・「顔」、それは身体の一部ではなく、「他者に(利害や報酬に還元できない)義務感を抱かせるもの」としてレヴィナスは述べている。
・例えば、「空を飛べない」。これは物理的に不可能なこと(行動の選択肢として存在しない)。それに対して「火の中に子どもを助けに飛び込めない」。これは実際は飛び込むことは可能(行動の選択肢として存在する)。
・「殺人」は(法律的に、道徳的に)罪であり、それをしないことは義務である。しかし、「他人に親切にしないこと」は罪ではない。つまり、「不完全義務(=果たさなくてもよい)」である。もちろん、「果たしたら立派」でも「果たさなくても責められることはない」。
・しかし、レヴィナスはこの「不完全義務(=果たさなくてもよい)」を果たさないことも、「(道徳的な)罪」と考える。しかし、この考え方には多くの人が納得できないだろうし、代償があまりにも大きいと考える。何せ、「私の命」と「他人の命」を比較した場合、後者を優先しなさい、というのだから。
・「私の命」と「他人の命」は「平等ではない」。まさに「自他の不平等」。つまり基本的な「常識」をレヴィナスは否定する。果たしてその根拠は?
・顔=「裸」、である。「裸」とは、「価値という考え方から自由なもの」。つまり、「裸」の上にまとった「衣」は無価値であると考える。
・目の前にうずくまっている「他者」を救う義務は、私だけではなく、私の周りにいる誰かが感じてもいいはず。それでも、「私だけは特別な例外である」と感じ、その義務を果たさなければ、と思う。それはなぜかわからない。
・それは「気のせい」「錯覚」「義務ではない」ではないか?このように誰でも考えたくなる。なぜなら、知覚というものは往々にして誤るものだから。それに「主観的な根拠」でしかない(=客観的な根拠なんてどこにもない)。つまり、それは「(神への)信仰」に近い。
・「顔」と「神」は似ている。どちらも「隠れている」「見えない」。
・しかしレヴィナスは、このような形(=信仰)で「他者への義務」を背負うしかない、と述べる(「それは勘違いかもしれないけどね」、という留保付き)。
・これは、客観的な事実・根拠の積み重ねによって「信じる」という考えとは異なる。

物語とレヴィナスの「顔」―「顔」からの倫理に向けて物語とレヴィナスの「顔」―「顔」からの倫理に向けて
佐藤 義之

by G-Tools
レヴィナスの倫理―「顔」と形而上学のはざまでレヴィナスの倫理―「顔」と形而上学のはざまで
佐藤 義之

by G-Tools

この話を受けて、僕は直前にちょうど読んでいた「二つ目の倫理は存在するか : 「ケアの倫理」とレヴィナスの「顔」」という先生の論文の、以下の箇所を連想しました。

 男子が「世界は危険にみちた対決にあふれ、いつ壊れてしまうか分からない人間関係しかない」と見ているのに対し、女子では他者との「結びつきを通じて定義される自己」であり、アイデンティティーが対人関係のなかで定義される。
 こういう人間関係の背景をもつ男子では、それが典型的に現れる慣習的水準において、道徳は権利主張の抗争調停とみなされるのであり、正義原則によって一旦判定が下されればそれ以上の同情を他者に対して向けることはない。そこでは不干渉の道徳に基づく他者への潜在的関心が支配している。一方、結びつきの中で生きる女子では、「他人をなおざりにしてはいないか、他人を助けることもできるだろうに見捨ててはしないか」と心配する。

(男性的な)「正義の倫理」と、(女性的な)「ケアの倫理」との葛藤の果てに訪れる統合の中にこそ、「不完全義務」を「完全義務」とみなすレヴィナスの倫理のヒントがあるように思いました。

 正義の倫理をとる者はその硬直した抽象的な正否の判断が、必ずしも現実の問題解決につながらないことを悟り、原理の相対化を経て状況に応じた柔軟な判断を下すようになる。こうして男性でも正義を絶対視しなくなり、ケアの倫理を取り込むような形で、人間関係に目を向けるようになる。これが柔軟な大人の倫理観であり、男性の成熟の姿であるという。ケアの倫理から出発した女性、正義の倫理から出発した男性のどちらにおいても、最終的課題は「権利の責任の統合」なのである。

やっぱし思い切って、レヴィナスの原著にトライしてみよう!
全体性と無限 (上) (岩波文庫)全体性と無限 (上) (岩波文庫)
レヴィナス 熊野 純彦

by G-Tools
全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)
レヴィナス 熊野 純彦

by G-Tools
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://esk.blog9.fc2.com/tb.php/1015-a9d2fcc1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。