わたり終えるか、転げ落ちるか
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4/29(金)、「トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)」の合評会に行ってまいりました。評者は松本礼二先生(早稲田大学)と佐藤淳二先生(北海道大学)。それぞれの評者の先生が、それぞれのやり方で、トクヴィルを読む上での視点と補完情報を提供してくれました。が、何よりも感銘を受けたのが富永先生のリプライ。他の先生方がメタ視点であれこれと評している中で、きっちりと、それこそ実存をかけて、お話くださる先生の語り口そのものに惹かれていました。
トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)
富永 茂樹

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アメリカのデモクラシーアメリカのデモクラシー(岩波文庫)
トクヴィル 松本 礼二

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ヴィジュアル・クリティシズム―表象と映画=機械の臨界点ヴィジュアル・クリティシズム―表象と映画=機械の臨界点
中山 昭彦 佐藤 淳二

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富永先生のリプライを拝聴しながら、僕は「トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)」と同じく「まなざし」という言葉を使っておられた「不安へのまなざし-現代人間学の探求<特集>」という1979年の先生の論文の以下の記述を想起しました。こちらはトクヴィルではなく、フーコーに関する論考なのですが、合評会で先生がおっしゃっていた「社会学がつまらない」理由、「社会学が社会を捉え損なっている」理由が、ここに詰まっているように思いました。

不安へのまなざし-現代人間学の探求<特集>

 さらに付け加えると、他のいわゆる構造主義者の著作が、フーコーほどにわれわれの興味を惹かないのは、彼らの<構造>における<歴史>の希薄さに加えて、仮に<構造>-<歴史>がともにある程度の射程内にある場合でも、いままで見てきた<不安>への意識がほとんど欠如しているか、さもなくば、これに対して敵対的ですらある-からである、とも考えられる。
 フーコーの文章と思考とを魅力あるものにしているのは、<歴史>と<構造>に加えて、<不安>への配慮という、この三つの組み合わせに他ならない。この三番目のものは、フーコーの思考の中で前二者の研究の共通の目標であると同時に、二者を統合する役割を果たしていると言える。


以下合評会のメェモゥ。

【松本先生評】
・文学、美術を含んだ、非常に「趣味の良い」本である。
・問題意識は一貫していてわかりやすい(がゆえに、いろんな捉え方ができる)。
・トクヴィルは『「近代化(democratization)」にまつわるすべて』を対象としていた。
・トクヴィルは身長162or3センチ。声は小さめ。目が印象的(→「まなざし」はここから?)。
・トクヴィルは、「遠く」かつ「深く」を見る人。そして何より「Democracyの中にいる人」。
・「対象の分析」=「自己の解剖」な人。富永先生にも当てはまるのでは?
・友人ケルゴレに宛てた手紙。この段階ではまだトクヴィル自身、デモクラシーについてあまりわかっていない。アメリカに行ってから、気づいたことが多い。
・アリストクラシーの終焉は予見していたが、手紙を書いた時点では「アメリカン・デモクラシー」ほどの認識には達していない。
・「けれども、多数の意思はほんとうに集合全体の意思であるのか。また、それに反する意見をもつ少数者はどんな立場におかれてしまうのだろうか」という発想が「小学生のとき以来いだいてきた」という事実に衝撃。
・アリストクラシー、デモクラシー、いずれも主体はそれぞれの「主従」関係に「納得」している。
・アリストクラシー、デモクラシーそれぞれが問題なのではなく、「移行期」が問題。
・革命=平等の結果、専制が生まれた。自由の伝統がなかったから。
・(a)政治的結社、(b)市民的結社。(a)がないと(b)は無理。なぜなら、(b)は既知の結社であり、(a)による未知の結社が必要だから。
・日は、平時には「Privatization」、有事には「Association」。仏は、平時には「Privatization」、有事には「Democracy」。

【富永先生リプライ】
・院に入って初めてトクヴィルを読んだ。
・「初期富永」が濃く出ている。
・ほとんどの社会学者が「トクヴィルなんて知らんで」と言う中で、(違和感を抱いていた)社会学に向けて語っていた。
・諮問の先生へのダメ出しとしての「トクヴィル」。「ありえた社会学」としての「トクヴィル」。
・しかし何の反応もなかった。バカバカしいと思ったので、社会学を見捨て、離脱していた。
・社会学への「決別」としての本書「トクヴィル」。
・「アソシアシオン」。政治的結社は市民的結社の「学校」である。
・「社会の解体」→「自然に戻っていく」というのが究極のデモクラシーだとトクヴィルは認識していた。
・トクヴィルの最大の課題は「再社会化」であった。
・移行期の中の平等とは、「平等という状態」ではなく、「平等への運動」。つまり、平等の完成はない。
・「アリストクラシーは終わったけれど、デモクラシーは来ていない」。

休憩を挟んで、続いて佐藤先生のお話。大変失礼ですが、先生の読み方、捉え方は、個人的にかなり違和感がありました。富永先生がリプライの冒頭で「難しい角度から読んでいただいた」とおっしゃっていたのですが、そんなのただの謙遜で、僕には「難しいけれど、重要ではない、それどころか不必要な角度」でしかないような気がしました(失礼…!)。それこそ「不安へのまなざし」が全然足りない、と言いますか。メモもほとんど取りませんでした。

【佐藤先生評】
・(富永本=トクヴィル本としての)「作品」(エクリチュール)である。それに多くのDimentionを持っている。
・政治論的に興味があるのは、マルセル・ゴーシェ。中央権力=鏡像のイメージ。ラカンにどうして触れなかったのか?
・部分と全体の「離接」。「離接」とは「&&&&&&&…」なイメージ。
・「部分社会」(ルソー)を増やした方が良い。但し、ローマが元々「血縁」社会というのが前提。
・個人→社会→世界、という段階が、中間集団の消滅によって、個人→世界となった。これって「セカイ系}?
・「まなざし」とは、→→時間性→→他者性→→(対象)、というイメージ。

【富永先生リプライ】
・難しい角度から読んでいただいた、という印象。
・73年にトクヴィルを読む直前、卒論「『存在と無』における社会学」を書いた。「トクヴィル」も「実存主義的なトクヴィル本」と編集者に言われた。
・「健康論序説」執筆時(何と学部4回生のときに書いた!)、フーコーを熱心に読んでいた。
・76年に初めてパリを訪れた。そこでフィレの名前を始めて聞く。
・70~80年に出会ったいろいろと、トクヴィルの関係が見えなかったが、本書執筆中にようやく見えた。
・「群衆」の問題。産業化に伴い、出てくる群衆とは違う。
・ボードレールの「群衆」。つまり、近代的な都市から出てくる群衆。主体の消失or変質についてヒントがつまっている。ここのつながりで考えるとおもしろい。
・「荒野」としての群衆。
・ピエール・マナンの「我々」問題。
・スパルタ→アテネ→ローマ…と現在遡り中。ポリビウスを今読んでいる。アリストテレス、マキャベリも読んでいきたい。
・中間集団は数が多い方がいい。ルソーはローマを想定している。
・社会を捉え損なっているのが社会学、である。

群衆論の完成版、絶対に出してくださいね!楽しみにしています!
トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)
富永 茂樹

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