わたり終えるか、転げ落ちるか
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■9/24(土)、「レクチャー第一次世界大戦を考える 連続合評会」の第4回「葛藤する形態―第一次世界大戦と美術 (レクチャー第一次世界大戦を考える)」に行ってきました。パウル・クレー展での講演は整理券秒殺で拝聴できなかったためリベンジ感もあり、この日をとても楽しみにしていました。第2回目の「「クラシック音楽」はいつ終わったのか?」の著者岡田暁生先生、次回「表象の傷」の著者久保昭博先生と3人合わせて、「芸術3人衆」と呼ばれていることをこの日初めて知りました。最初にその呼称の案内からスタートしたこの合評会、「うーんこれはステキな芸術の秋になるぞ!」と確信しました。
葛藤する形態―第一次世界大戦と美術 (レクチャー第一次世界大戦を考える)葛藤する形態―第一次世界大戦と美術 (レクチャー第一次世界大戦を考える)
河本 真理

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まず、河本先生による「葛藤する形態」の目的に関する言及×2。

・リチャード・コーク「苦い真実―アヴァンギャルド芸術と大戦」と差別化したかった。あちらは伝記的要素やズ晩が豊富だが、膨大な資料の中に美学的考察が埋没してしまっているきらいがあるから。この本と違うパースペクティブを示すのが「葛藤する形態」の目的。
・「現代戦争をいかに表象するか、あるいは現代戦争はなお表象可能なのか」問題において、フィリップ・ダジャン「画家の沈黙―大戦に直面した芸術家たち」にて、不可視(塹壕戦)であり耐えがたい(凄惨な殺戮)がゆえに、現代戦争を表象することのできる媒体はもはや絵画ではなく、新しい媒体たる写真と映画であると主張される。この主張に反証を示すのも「葛藤する形態」の目的。

この後、「絵画の場合、写真と異なるのは「時間性」と「造形的綜合」」であり、前者の意味は「戦争体験を内的に咀嚼するためには、ある程度の時間が必要とされる」というもので、後者の意味は「戦争画は、単に戦場の光景を写した『逸話』や『記録』だけではなく、『解釈』によって『綜合』されたものである」と説明が続きます。「現代戦争をいかに表象するか、あるいは現代戦争はなお表象可能なのか」問題における「中立(的な表現)」VS「解釈(を許容する個性的な表現)」。当日、評者の高階絵里加先生も、ご専門の日本画の中で大戦に関するものを紹介されていたのですが、その中で「爆弾散華」(川端龍子)という絵がとても印象的でした。戦場、兵士、銃、死体…戦争に関するどんな絵や写真よりも、戦争を「表象」しているような気がしたんです。次回の久保先生の「表象の傷」合評会でも話題になっておりました「間接的に表現することで直接的な表現を上回る」ことに長ける芸術表現の、とても具体的な形を見た気がしました。

■10/8(土)、「レクチャー第一次世界大戦を考える 連続合評会」の第5回「表象の傷―第一次世界大戦からみるフランス文学史 (レクチャー第一次世界大戦を考える)」に行ってきました。この日は何と映像撮影入り&隣の席をふと見たら大浦康介先生!(最新刊「誘惑論・実践篇」をオススメいただきました。ただ今拝読中です)ということでいつもより緊張感増しで拝聴させていただきました。この日の評者は何と久保先生の卒論の指導教官だったという塚原史先生。「師弟対決!」とのこと(「発表、うまくなったねぇ」みたいなお言葉もあり、師弟を感じました!)。
表象の傷―第一次世界大戦からみるフランス文学史 (レクチャー第一次世界大戦を考える)表象の傷―第一次世界大戦からみるフランス文学史 (レクチャー第一次世界大戦を考える)
久保 昭博

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反逆する美学―アヴァンギャルド芸術論反逆する美学―アヴァンギャルド芸術論
塚原 史

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まず、とても興味深かったのが、「戦争のリアリズムを知りたい!」というニーズと見事に合致した結果としての「砲火」バカ売れのお話。戦争の「真実の姿」「「生の」現実を描いたものとされる文学作品」の中の(戦争の)「真実」「現実」という言葉が気になりました。こ、これが戦争の「真実」か!、こ、これが戦争の「現実」か!という読者の熱狂が想像できます。

…アンリ・バルビュスの『砲火』は、二〇万部を売るベストセラーとなった。―中略―戦争体験を描いた小説が一般的に広く受け入れられた理由は、人々が、戦争の「真実の姿」をそこに認めたからであると言われている。自分が戦っている戦争について理解することを望み、自らの姿を文学の中に認めたがっていた兵士たち、あるいは家族や友人が出向いている戦場でなにが起こっているのかを知りたがっていた読者たちの欲求を満たすため、大戦中は、小説家にもジャーナリスト的な役割が期待され、「生の」現実を描いたものとされる文学作品が評価されたのだった。

しかしその一方で、「(言語)表象の不可能性」による「言語不信」。先生がおっしゃる「非=言語の世界」についてのお話の際に、前回紹介されていた「爆弾散華」が頭を過ぎりました。「ことごとく自らの経験とずれている」感じを埋め合わせる「非=言語の世界」が、「爆弾散華」的なものとマッチしたような気がしたのです。『「爆弾散華」的なもの』がうまくコトバにできなくて歯がゆいのですが…やはり「間接的に表現することで直接的な表現を上回る」こと、になるのでしょうか…。確か、大浦先生が質疑の際に島崎藤村を引き合いに出しておっしゃっていた言葉だったと思います。

戦争をめぐるさまざまな言説を吟味した後で、それらがことごとく自らの経験とずれていると感じ、「戦争は戦争だ、自分で行ってみろ」という同語反復による説明拒否に陥る休暇兵の逸話を提示しつつ、そこから言語表象によっては、個別的な経験や対象に到達し得ないという結論を導き出した。おそらく彼は、沈黙あるいは非=言語の世界に、個別性、あるいは人間性の根源が潜んでいると考えていたのである。

文学を知り尽くした先生が行き着いた「非=言語の世界」。これからのご研究でも、ぜひ注目させていただきたいです。話題の「地下鉄のザジ」も楽しみ!
地下鉄のザジ (レーモン・クノー・コレクション)地下鉄のザジ (レーモン・クノー・コレクション)
レーモン クノー Raymond Queneau

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