わたり終えるか、転げ落ちるか
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1/21(土)、人文研アカデミーセミナー・シリーズ「政治を考える」の第三回目(最終回)「ルソー-桑瀬章二郎 編『ルソーを学ぶ人のために』仲正昌樹 著『今こそルソーを読み直す』をめぐって」を拝聴してきました。まずは司会の王寺先生から「このシリーズは、昨年5月のアルチュセール10月のトクヴィルと続いて、今回のルソーで最終回」「今年数多く行われるであろうルソー生誕300周年記念行事の先鞭をつけた!」とのご挨拶。「『ルソー研究』、『ルソー論集』」等、ルソーと人文研にまるわる歴史」のお話も。

まずは桑瀬先生から「政治における虚言」という演目での発表。「ルソーを学ぶ人のために」の編者としての登壇です。
ルソーを学ぶ人のためにルソーを学ぶ人のために
桑瀬章二郎

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「嘘」と言えば、デリダの「嘘」にまつわるインタビューがある(「言葉にのって」?)、デリダと言えば、「デリダの遺言」が最初に読んだ仲正本、とのお話で導入されました。配布されたレジュメには、ルソーの著作の「嘘」「虚言」にまつわる抜書きがたくさん。「つまり、自分の利益のためには、実際の自分とはちがったふうに見せることが必要だったのである。」とか、「私は書物の中に真実を探し求めました。そしてそこには嘘と誤謬しか見出さなかった。」とか、「まったく素朴な自然のうちにきみを育てることによって、わたしは、きみにつらい義務を説いて聞かせるようなことはしないで、そういう義務をつらく感じさせる不徳からきみを守ってやった。うそを忌まわしいものときみに教えるよりもむしろきみには無用なものにしてやった。」とか。いろいろと手を変え品を変え、「嘘」がとにかく嫌い、と言っているように思えました。以下私が気になったメモ。

・「政治における虚言」。ルソーにとって政治とは何か。
・革命家のバイブル「社会契約論」(「エミール」との「補完」も含めて)。鍵概念を革命家に提供。
・「エミール」が(自著の)最高傑作。それは言わば「善性の証明」。
・ルソーは執筆草稿と最初稿とのギャップが非常に大きい。
・ルソー作品において、「嘘」「虚言」は極めて特殊な概念。
・「嘘」「虚言」のない政治空間の困難。それはルソーの(政治的)著作への新たなアプローチを可能にする。

「執筆草稿と最初稿とのギャップが非常に大きい」というのがとても気になりました。どれくらい違ったんだろう。「嘘」が嫌い、というのと関係しているのかしら。

続いて仲正昌樹先生。「今こそルソーを読み直す」を踏まえての登壇です。演目は「ルソーの政治哲学をどう読むか」。
今こそルソーを読み直す (生活人新書 333)今こそルソーを読み直す (生活人新書 333)
仲正 昌樹

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・「矛盾したルソー観」に対して「すっきりとしたルソー観」を提示したかった。「今こそルソーを読み直す」の執筆動機。
・「人間不平等起原論」と「社会契約論」。並べて読もうとして、読むことはできるが…違うロジックで書かれている印象。求めてはぶつかるの繰り返し(理論的にも心情的にも)。
・「パロール」を求めても、「エクリチュール」によって記号的に構成されることで、逃れられない記号的な「私」で幸せを求めることしかできない。
・共同的自己の意味「みんながあたかも一人の意志(人格)であるかのような考え方。
・自然的自由と市民的自由の両立はムリ。
・「一般意志2.0」の問題。すべてのベクトル(三次元)がプラスを向いている状態。それが公共性。これを発見したのがルソー。
・ただ、その「公共性」を可視化するには、人工知能の最前線の知見をもってしても不可能ではないか。そして、そもそもそれ(=「公共性」)を見つける必要はあるのか?

つねに正しいが、それを導く判断はつねに啓蒙されているわけではない」「一般意志」が、「一般意志2.0」によって技術的に達成されるのは(まだ)難しい、ということより、そもそもその「必要があるか?」というご指摘が、何とも仲正先生っぽい感じがしました。

最後の質疑で仲正先生の別著「なぜ『話』は通じないのか」で紹介されていたような「悪い聴衆」が出現(この一年で、何度か見ました)。「悪い聴衆」=「『公共圏the public』が無秩序に拡がっている近代市民社会に共通の病理かもしれない」が頭を過ぎりまくるひととき。

 「悪質な聴衆」は、講演者の話をよく理解しようともしないで、「質問タイム」を待っている。無論、もともと「理解」する気がないので、それは本来の意味での「質問」ではない。言うことが、決まっているのだ。自分が常日頃から世間に向かって言いたいことを、そういう「場」を利用して口にしようとしているだけなのだ。

なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論
仲正 昌樹

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あんなに年老いてまで、「常日頃から世間に向かって言いたいこと」があるなんて、今でもたくさん本とか新聞とか読んで勉強してるんだろうなぁ。一方で、(どれだけ勉強しても、その完成可能性に)「限度がないからこそ人間の不幸はいっそう深まる」ことを悶々と思いながらの帰路。

 ところがこのように人間精神の進歩についての確信を表明したテュルゴの演説とあい前後して、学問と技芸の発達がむしろ人間にたいして否定的な結果をもたらしていることを論じるルソーの『学問芸術論』が刊行されるのである。このディジョンのアカデミーが出した「学問と技芸の進歩は習俗の純化に貢献したか」という課題に答えて当選する懸賞論文で、著者は「われわれの学問と技芸が完成に向かって進むにつれて、われわれの魂は腐敗した」ことを論じようとする。ルソーも文明の進歩という事実そのものを否定しているわけではない。それでもここで呈示されたのは、コンドルセの師のそれとはまったく逆の評価なのであった。
 不評もふくめて彼をたちまちのうちに有名にした『学問芸術論』につづいて、ルソーは人間のあいだの不平等の起源を主題とし、今回はディジョンのアカデミーに受け入れられることのなかった第二論文を執筆する。「完成可能性」という新語が作られたのはこの論文においてであることはよく知られているが、この観念がルソーの文明批判と密接な関係にあるのはいうまでもない。動物とはことなり人間にはみずからを完成させる能力がともなっている。だが「このきわだった、そしてほとんど限界のない能力が人間のあらゆる不幸の源泉となっていること」を認めなければならないとすれば悲しいことであると筆者はいう。ここで人間の完成可能性には限界がないとされていることには注意しておかなくてはならない。しかしルソーにとっては、この能力には限度がないからこそ人間の不幸はいっそう深まるものであったはずである。

啓蒙の運命コンドルセ VS トクヴィル:啓蒙の運命
富永 茂樹

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学問芸術論 (岩波文庫 青 623-5)学問芸術論
ジャン・ジャック・ルソー Jean-Jacques Rousseau

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