わたり終えるか、転げ落ちるか
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4/21(土)京大人文研共同研究班「ヨーロッパ現代思想と政治」の(班長市田良彦先生の最新刊「革命論 マルチチュードの政治哲学序説 (平凡社新書)」の合評会という体裁ではありましたが)公開研究会!司会の王寺先生より「哲学と政治の関係を問い直す研究班」と紹介された後、「基本的には普段の研究会の形式・それを一般公開」「研究班員の発言を優先したい」とのこと。現代思想班のライブ!という感じでものすごく楽しみにしておりました。
革命論 マルチチュードの政治哲学序説 (平凡社新書)革命論 マルチチュードの政治哲学序説 (平凡社新書)
市田 良彦

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まずは著者の市田良彦先生。

・もっぺん全部説明するのは嫌なもんがある(笑)。
檜垣さんの書評をネタフリに始めたい。
・典型的な反応は(「革命論」は)「難しい」「どうしろと言うのか?」の2つ。
・現状の政治の中の言葉とどのようにかみ合わせれば良いのか。
・執筆の背景に、「Multitudes」(仏の雑誌)の中での議論。
・「どうしろと言うのか?」問題で分裂してしまった。
・「哲学や思想に政治への解答を求めるべきではない」と思っている。
・政治的主張を、思想・哲学の言葉で「言い直してほしい」「それが正しい」と言ってほしい、みたいなものを感じる。
・ソクラテスは国家ではなく、民衆に殺されたのでは?
・「世の中の要求に応える」という目的に、哲学は必要ないのでは?哲学=「統治論」になっているのでは?
・グローバル国家・グローバル資本主義への反抗として、国民国家形成論の位置づけ直しとしての哲学。この考えには異を唱えたい。極左からEUを容認しようとした。
・政治問題に対してだんだん語らなくなる。
・バディウを取り上げるなんて許さん!という圧力。
・金融資本主義に対する革命的敗北主義。新しいニューディールは可能か?
・革命とは何か?
・サルトルの復権、脱構築は正義だ!…これは政治の話だろうか?
・出来事に対しては受動的。出来事の自然主義化に逆らうような側面を持っていたのではないか?
・出来事の主体的側面・客観的側面が合わさったものとして、取り組みたかった。
・ウルトラ客観主義⇔主体性のありかの方に、例外を認める。
・このコントラストを際立たせるためにアガンベンに間に入ってもらった。
・「4章のフーコーの話は浮いていないか?」(王寺先生)との指摘。確かにそうかも。

革命論」を拝読して、ちょうど埋めてほしかったところを埋めていただいた、という解説と、そんな背景があったのか!という驚きもあり。さらに王寺先生による補足。

・史的唯物論が破綻した後、マルクス主義破綻後の、「政治」と「哲学」の問題、その関係。
・繋ぎえない「主体」と「客体」を「出来事」が繋ぐことがありうる。
・そのことが「革命」と呼ばれる、という大きな枠の中で議論が進んでいる。

続いて、「暇と退屈の倫理学」が話題の國分功一郎先生。
暇と退屈の倫理学暇と退屈の倫理学
國分 功一郎

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・人文研は有名な組織で、呼んでいただけてうれしい。
・でもKYなのでたくさん失礼を言ってしまうかも。二度と呼んでもらえないかも。
・哲学・思想に政治の答えを求めてはならない。賛成です。
・問題を立て直す素材を与えることはあっても、解答を与えるものではない(ドゥルーズ)。
・ソクラテスは民衆に殺されたのでは?これも賛成です。
・哲学とは、プラトンの師匠が処刑されたのは、真理を追究すると殺されてしまう、ということ。KYは殺される、ということ。
・つまり哲学の課題って「真理を追究しても殺されないようにするにはどうすればいいか」ということかと考えています?
・もしかしたら殺されるかもしれない、でも殺されないで、真理を追究する、それが「哲学」。
・「革命論」を読んでまず思ったこと、誰に向かって書かれているのか?
・こういう書き方のものを本として出すのはいかがなものか?むしろ倫理的な問いとして尋ねたい。
・なんでそういうことを思ったかというと、説明が足りない。ドゥルーズ「偶然」を説明なしに話を進めるのはどうなの?
・政治とは何か?
・思想家の選択基準は?イタリアとフランスに偏ってない?英語圏を入れる必要があったのでは?
・フランソワ・ズーラビグヴィリがビッグネームに混じるのはどうなの?
・冒頭部分である種のものが批判されている?これは誰?サンデル?もしかして「実在しないもの」なのでは?どうしてこういうモヤっとした書き方をするのか?
・あえてなのか、大真面目なのか、アルチュセールの考えなのか?
・市田先生は「例外を前にした哲学者」なのか?
・ズーラビグヴィリの扱い:そんなにスポットが当たらないのでうれしいことはうれしい。が、扱いがひどい。
・ネグリ「国家論」に契約的観点がないことに注目しているが、それは重要だろうか?
・スピノザの国家論に契約論的視点がない、というのは本当にそうなのだろうか?

王寺先生より「『革命論』は『難しい』かな?市田先生の本としてはやさしいのでは?慣れてきただけなのかもしれないけど」というつなぎがあった後に市田先生の応答。

・書評してもらえなかったのがまず残念。
・ドゥルーズはどこで「革命的になること」が人間にとって唯一のチャンスだと述べているか?…出典書いてあるし、しかも有名な言葉では?フレーズまで覚えている(暗唱してみせる)。正直、翻訳をめぐる異論かと思った。
・ネグリオリジナルと思われているものも、マトロン。なので紙幅を割いた。
・マトロン、ネグリの論争史は長い。その話は何回も出てきているのでぜひ拝読を。
・ズーラビクヴィリ、本人別に嫌がってなかったですよ?
・あえてなのか、大真面目なのか、アルチュセールの考えなのか?…全部ですよ!
・「政治とは何か?」を定義してから議論するのは、この本(=「革命論」)の精神に逆行することになる。そんな簡単に政治という言葉は使えないよ?
・「偶然」とは?辞書的な意味で十分です。深い意味はないです。偶然をもり立てるのはナンセンス。「世界は偶然である」→「で?」。
・それに「一種の」って書いてあるでしょ?
・「研究班員宛」が「一般宛ではない」とは思わない。
・違和感を持ったならば、形にしてほしい、表現してほしい。ズーラとマトロンの重要な論文にくらいは触れてほしい。

國分先生は「今のお話のような感じで本を書かれては…」と回答したあとも、いくつか反論を試みていましたが、うーんそれはちょっと…という印象でした。大御所に噛み付く気鋭の若手、という場面になるのかも、という雰囲気もあったのですが…。ここで「政治と哲学は一旦分離しなけえばならない」「正しい規範を与えるのが哲学、ではない」というまとめが入り、第一部は終了。

続いて第二部は小泉義之先生から。司会の王寺先生より「これまたケンカ越しのレジュメ」との紹介。

・それにしてもさっきのは…僕ならもっとぶち切れる。市田さんは善人だ。
・出来事=奇蹟論、恩寵論、天変地異。今や誰も革命について考えていない。何の不思議でもなんでもない「出来事」
・市田さんが特にフランスイタリア中心で、英語圏入れても結局、西欧中心主義だ、と思った。
・ロシア革命、中国革命は例外、そのまなざしがすでに間違っている。
・89年の東欧革命を経て、90年以降のヨーロッパ知識人の政治論は、民主主義論。すなわち「革命なんてやんなくたっていい」。
・政治的なるモノは、(少なくとも)政治的には無意味である。
・哲学的とは何か?
・哲学が「哲学的」になるときはユートピア?
・ユートピアは、脱領土化の概念。コンセンサスの中にないもの・ここにないもの。
・ドゥルーズの政治性とは。ドゥルーズは人種に入れ込んでいた。来るべき民衆の「民衆」は「民族」。
・「完全」「最善」(=最悪)への志向があった。そこを飲み込む必要がある。
・誰もがマイナーになるわけではない。革命者はそもそも少数者だ。
・ドゥルーズやフーコーはポリティカルではない。ただのインテリ。活動家の世代ではない。
・バディウに「バートルビーは革命家か?」という質問。力強く「ウイ」と答える。雑誌に掲載されたとき、そこで会場(笑)が追加されていた。
・政治的な活動家とは思えない。
・自然災害に当てはまるような「出来事」のことを、ポリティカルと呼ばなくていいのでは?

市田先生からの回答です。

・「革命論」は7000刷って、4000売れた!
・バートルビに希望を託すようなことは「アカン」と本では言っているはず。
・政治に言うことがなくなっていって、マイナーになるということとは違う。
・いくら革命的になっても、いくらマイナーになっても、革命はできない。
・ドゥルーズは「最悪」の世界を目指していた。
・終章のフーコーで書いたことを、新たな革命像とは思っていない。
・形容詞としての「革命的」と、出来事としての「革命」は区別すべきである

続いて班員の方々からのコメント&応答。特に気になったのは「革命主体」を「技術的に」生み出すことができるのか、というお話。会場から長崎浩さん(!)の「政治と哲学が癒着する瞬間=叛乱」というコメントを受け、市田先生が「瑣末な調整を含む『出来事』としての叛乱」を起こす「独自の技術はありえるのだろうか?」という問題提起から、話の中心は「精神分析」に。それも「治す治療としての精神分析ではない、主体の立ち上げと関る、希望としての精神分析」。「症状消えなくても主体になったらエエ」とまでも(「市田先生は『死の欲動』の人で、橋下主義的なもの(新自由主義的なもの)と愛称が良いのでは?」というコメントも出るほど)。そこで浅田彰さん(!)より挙げられた(草間彌生さんのアートをヒントにした)「病を病によってサバイバル(これが主体)」というご指摘が大変印象的でした。こうして後半はほとんど精神分析のお話になり、その中でも私が最も気になりましたのが長崎浩さんのお言葉「(精神分析では)その言葉を投げ入れるときに、一方で先鋭の言葉、でも一方で包括的な言葉、をかけなけばならない」。
<関連>
浅田彰【草間彌生の勝利】
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