わたり終えるか、転げ落ちるか
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
■連休初日はぶらり京都へ。これでもかというくらい満喫しました。
Owly Images

Owly Images

Owly Images

■実際に足を使って見て聞いて嗅いで感じて、というのはやはり良いものですねーぷち足学問気分に。一方で、こうして撮った写真をブログに「記録」することで、「私のなかに眠っていた『記憶』がまたひとつ『記録』へと物質化されてしまったことで、自分の貴重な財産の一部が損なわれ」てしまうのかなぁ、とか…。

 私たちの身体が器の役目を果たしていないということは、「記憶」の問題を考えるときにとりわけはっきりするように思われる。リアルタイム・コミュニケーションにかぎらず、現代的なメディアを経由するいかなる経験も(そしてカメラ機能つきの携帯電話を人々が至るところに持ち歩く今日、もはやメディアの入り込まない経験が私たちの日常に残されているだろうか)ほとんど記憶されない。もちろん、「記録」なら残るだろう。どこかのサーバーや誰かのパソコンに、アーカイブとして。だが、メディアや装置のなかに膨大に残るそれらは、もはや「記憶」ではない。なぜなら、記憶とは私たちの身体のなかに残されるものだからだ。YouTubeがポピュラーになって以来、もはやテレビの懐メロ番組が要らなくなったと感じている人は少なくないだろう。かつて気に入っていた驚くほどコアなシンガーの驚くほどレアなレコードのB面の曲などがアップされているのに出会うと、私の涙腺などはイントロを耳にしただけでゆるんでしまうこともある。だが、それを聴き終わるころには、思い出の一曲に再会できた私の興奮はすでにうっすらと醒めはじめている。気が済んだ、というのではない。それまで私のなかに眠っていた「記憶」がまたひとつ「記録」へと物質化されてしまったことで、自分の貴重な財産の一部が損なわれたような気になるからだ。

文藝 2010年 11月号 [雑誌]露出せよ、と現代文化は言う第四回「コンテンツなき身体、思考なき無意識」:文藝 2010年 冬号
立木 康介

by G-Tools
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://esk.blog9.fc2.com/tb.php/1066-e97f2d17
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。