わたり終えるか、転げ落ちるか
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■CDを100枚ほど売り払いました。ちょっとだけすっきり。

■テレビでやってたのでほけーっと。「『正義』を考える」での大澤真幸さんの「八日目の蝉」分析にありました以下の指摘は改めてお見事だなぁと思いつつ、その一方で、「あれがあるから生きていられると思えるような一番大切な時間、人生のすべての基礎になるような時間、人生の中で無条件に幸せな時間」を薫に与えた「希和子」を演じきった永作博美さんがもうホントお見事過ぎまして。

 どうして人生のほとんどが八日目の蝉のような、つまり、なくてもいいはずの人生になってしまったのでしょうか。それは、この人のおよそ二〇年の人生の中で、あれがあるから生きていられると思えるような一番大切な時間、人生のすべての基礎になるような時間、人生の中で無条件に幸せな時間というのは、希和子と過ごした三年半だったからです。希和子は誘拐犯だけれども、薫を思いっきり愛した。希和子は、誘拐犯であるという社会的なレッテルを剥がせば、こんなにいい母親はいないと言っていいほどで、最高の育て方をしている。薫もまた希和子を信頼し、愛していた。
 しかし、にもかかわらず、恵理菜にとってその後の人生がうまくいかない原因は、もっぱら希和子に育てられたという事実にあるわけです。つまり、希和子との関係が幸せな記憶として人生の基礎にあり、人生に意味を与えるはずなのですが、その一番ポイントになることが、その後の人生が不遇であること、不幸であることの原因になってしまった。だから結果として、一番の幸せな瞬間が一番の不幸の原因になるという、そういう逆説が孕まれてしまう。

八日目の蝉 通常版 [DVD]八日目の蝉

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「正義」を考える―生きづらさと向き合う社会学 (NHK出版新書 339)「正義」を考える―生きづらさと向き合う社会学 (NHK出版新書 339)
大澤 真幸

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この連休に大澤真幸友だち(?)ができたっぽくてちょっぴりうれしい今日この頃。
<関連>
いかに『無個性で書くか』を考えつつやってきた:人生はタイトロープ

■柳田國夫と新村出の二つの共通点として挙げられていた「融通無碍な歴史性をそのまま客観的に認めること」と「執念といってよいほどの徹底した資料の探索と帰納的な比較の営み」という言葉に、(別の書籍で恐れ入りますが)以前「創氏改名」を読んだ際に感じた(のですがうまく言葉にならなかった)ことが、ぴたっと当てはまった、という印象がありました。

 二人の「ことば」観としてまず挙げなければならないのは、「生きていることば」への強い意志だろう。予め措定された規範性から出発するのではなく、しばしば矛盾や錯誤をはらみつつ無限に流転する「ことば」、その融通無碍な歴史性をそのまま客観的に認めることが二人に共通する出発点である。
 であればこそ、無数の言語事実を一つ一つ積み重ね、比較していくことによってしか、言語現象の実態を解き明かすことはできない。執念といってよいほどの徹底した資料の探索と帰納的な比較の営み、その一貫した資料へのこだわりが第二の共通点となる。書斎派と現場派という対立はじつは表層的なものに過ぎない。

ことばの力: あらたな文明を求めて〈ことばの聖〉ふたり: ことばの力 あらたな文明を求めて
菊地 暁 横山 俊夫

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創氏改名―日本の朝鮮支配の中で (岩波新書 新赤版 1118)創氏改名―日本の朝鮮支配の中で (岩波新書 新赤版 1118)
水野 直樹

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書斎派と現場派という対立はじつは表層的なものに過ぎない」っていうのもシビれるフレーズです!
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