わたり終えるか、転げ落ちるか
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■9/29(木)-10/18(木)京大人文研連続セミナー「交錯するアジア」に行ってきました。秋の連続セミナーです。春の連続セミナーのテーマ「移動」とも関連する(ように個人的に思う)テーマ「交錯」。とにかく全編を通じて気になったのが、アフガニスタンも、インドも、チベットも、トルコも、「寛容なのか非寛容なのか」、「厳密なのか曖昧なのか」ということ(またはその相反する価値観の併存がなぜ許されるのか、ということ)。例えば、イスラム非イスラム関係なしに誰でも行ける「スーフィー聖者廟」(第二回)、宗教はインド式中眼、「鐘」の読み方は中国語読み…取り入れられるものは何でも取り入れるチベット(第三回)、ヘレニズム美術を代表するベルガモン遺跡が一般トルコ人にとって「観光資源」でしかない(第四回)…第一回の稲葉先生の講義にありました「境界と越境には、政治的境界線をまたぐように人やモノの交通をfacilitateする組織、ネットワークが存在する」という例を先生毎にさまざまな角度から。うーん、それにしてもどうしてこんなことが、「交錯するアジア」では起こるのでしょう?ただただ不思議でした。
第四回の井谷鋼造先生(京都大学文学研究科)が後日、某先生と高校の同級生ということをお聞きしてびっくり!
■余談。第一回の稲葉先生の講義の質疑の際に今西錦司・梅棹忠夫話になったのですが「調査記録(パイオニアワーク)を見て…これはかなわん!」「人間としてえらい」「自分の目で見る、という気合いの違いを感じた」と先生はおっしゃっておりました。「研究室やホテルのテレビでもアフガンの様子を知ることはできるようになった」(稲葉先生)現在ですが、「情報の整備」(=いつでもどこでも誰でも?)と「自分の目で見る、という気合い」(=情報を追い詰める執念)は、どうやら反比例する?というお話を続けて聴いたような気がしたので、ちょっと気になりました。先日の山室先生の10周年記念講演会のときも先生は「今の(いろいろと整備された)世に生きていたら、もう少しマシな仕事ができていたなかな…という思い」とおっしゃっていましたが、むしろ整備されていなかったからあそこまですさまじい図書館巡歴ができたのではないか、とも。
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