わたり終えるか、転げ落ちるか
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12/15(土)、16(日)、国際シンポジウム「人種神話を解体する」に行ってきました。両日全メニュー聞くことはできなかったので、16(日)の午前の部、人文科学研究所の先生方が揃ってご講演されるパートのみ、参加してきました(初日15(土)には別の形で「参加」させていただいたのですが…それはまた改めて)。それにしても初めての京都国際会館!写真は建物の手前に流れる川をぼーっと眺めていたときのもの。「Black Clouds & Silver Linings」!
Black Clouds & Silver LiningsBlack Clouds & Silver Linings
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Owly Images
以下、簡単な私のメモと所感↓
まずは日下渉先生による報告「フィリピンにおける米国の公衆衛生とハンセン病者の暴動―規律と欲望のクリオン島」。20世紀初頭にアメリカが「友愛」「白人の責務」という意識の下、フィリピンのハンセン病者(=道徳的なけがれ、と見なされていた)を「希望の島」クリオン島へ強制隔離し、患者の治療(=前近代的共同体の否定、優性の介入が、劣性の発展をもたらす)にあたった結果、多くの原住民が親米的心性を抱くようになったが、患者の拡大を防ぐための「結婚禁止令」には反発が起こり、150人ほどの男性患者が女子寮に押し入る(!)、という事件が発生し、結婚の権利を勝ち取った、という内容。後の討議で、「ハンセン病が理由で人が集まる」というフィリピンの空気感のようなものを伝えたかった(日本だと「ハンセン病が理由で人がバラバラになる」)と補足されておりました。とても貴重な事例報告であると共に、心あたたまるお話でもありました。

続いて石井美保先生による報告「インドにおける血液・贈与・『コミュニティ』―有徴化と匿名化のはざまで」。第一次世界大戦で、兵士を分類する等、集団を「有徴化」する(=カーストや部族を分類)「血液」、一方で、「献血」等、個人がその「自己犠牲的行為」を通じて提供する「血液」は「匿名化」される…「有徴化」「匿名化」という、言ってみれば真逆の機能を果たす「血液」。「個人の身体」が自己犠牲によって「共同体の身体」になる…これを「自己供犠の論理」と呼ぶ。固有名を持つ個人が「血液(の贈与)」という「匿名化」によって、(あくまでも)集団は「科学的な分類」であるにも拘わらず、自己犠牲的行為の源泉、となる(なってしまう)、というお話、大変興味深かったです。ちょうど読んでいた「近代日本のナショナリズム」の「墓碑」に関する以下の内容と関連する気がしました。

第一に、墓碑の匿名性が意味していることは次のこと、すなわち人々は、ネーションという共同体に帰依していると見られている限りでは、具体的な特定の人物という資格においてではなく、抽象的で形式的な個人として主題化される、ということである。ここには、ここまで論じてきたナショナリズムにおける奇妙な混交が、反響しているのを見ることができる。抽象的な形式として見なされる限りでの個人は、言わば誰でもありうるのであって、原理的に言えば、その資格をどこまでも普遍化することができる。しかし、にもかかわらず、誰も墓が代表している不在の住民の国民的帰属を疑わないのである。

近代日本のナショナリズム (講談社選書メチエ)近代日本のナショナリズム (講談社選書メチエ)
大澤 真幸

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最後に竹沢泰子先生、加藤和人先生、太田博樹先生による共同報告「遺伝学と生物医学における集団のラべリング」。科学論文を見ると、コーカソイド、ネグロイド、モンゴロイド、エイジアン、アフリカン…今でも使われている分類、「科学者のラべリングにも問題がある」状態…サンプリング手法によって変わる(いつ、どこで、どのような手法で)にも拘わらず(生物学的・人類学的には、大半は混血(分集団を持たない)。集団の呼称における留意点をまとめたステートメントを2012年に発表され、その作成経緯についての裏話も含めた貴重なお話を聞くことができました。太田博樹先生は「グローバリゼーションの人類学―争いと和解の諸相」の第5回「現代におけるグローバリゼーションの視点から」で竹沢先生がインタビューされていた方だったでしょうか?少し記憶が曖昧ですが。
グローバリゼーションの人類学―争いと和解の諸相 (放送大学教材)現代におけるグローバリゼーションの視点から:グローバリゼーションの人類学―争いと和解の諸相 (放送大学教材)
竹沢 泰子 本多 俊和 大村 敬一

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ポストモダンの正義論 「右翼/左翼」の衰退とこれから(双書Zero)」でも述べられていた「同一(“同じように”)か差異(“違うように”)か」「平等性か個別性か」問題の困難さに行きあたりました。おそらく石井先生が指摘されていたと思うのですが、いわゆる古典的カテゴリーに分類されることを喜ぶ人もいるわけで。単純に「人種神話を解体」し、カテゴリーをなくせばよいわけではない、むしろ「科学的」カテゴリーによって、「人種神話」が抱えてきた問題よりさらに先鋭化するかもしればい、という指摘が印象的でした。

 「再配分」的正義論が、一つの政治的共同体に属する市民たちを経済的・政治的に「平等」に、つまり“同じよう”に扱うことを要求するのに対し、「承認」的正義論は、むしろアイデンティティ集団ごとの「差異」を強調し、違うものを無理に同じように扱うことなく、それぞれに合ったライフスタイル、価値観を「認める」ことこそ、各人の人格を「対等」に扱ったことになると主張する。例えば、民族的マイノリティに自治の権利を与え、マジョリティとは違う共同体的生活をするのを可能にすること、同性愛者に異性愛者のライフスタイルに合わせることなく生きるための権利と手段を与えることなどが考えられる。
 同一=平等性を志向する再配分の政治と、差異=個別性を強調する承認の政治は、基本的には相互補完的な関係にあると見ることができるが、時として対立する。文化的・歴史的に差別的な扱いを受けてきたために貧しい生活を送ることを余儀なくされているような人、例えばアメリカの黒人のシングル・マザーに対して再配分政策に基づく経済支援を行えば、貧富の差は縮小されるかもしれない。しかし、それによってかえって、「働かないで子供を産むだけで援助を受けている」という偏見が助長され、文化的承認の度合いはさらに下がる恐れもある。その逆に、承認的政治を優先する立場から、「民族的マイノリティに文化的自治を認めれば、そのマイノリティに属する人たちの生活水準がさらに低下する恐れもある。

ポストモダンの正義論 「右翼/左翼」の衰退とこれから(双書Zero)ポストモダンの正義論 「右翼/左翼」の衰退とこれから(双書Zero)
仲正 昌樹

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