わたり終えるか、転げ落ちるか
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ART CRITIQUE n.03」に掲載されている王寺賢太先生のロングインタビュー「私たちはいつでも逸脱できる―フーコー『カントの人間学』の射程」をようやく拝読。「脱原発「異論」」を拝読した際にも思いましたが、先生には一貫して、(「刺激―反応が一義的に決ま」る、という人間観の下で「めちゃくちゃたくさんのことを設計し、強制して」(=「マニュアル化と形式化」を進めて)いった結果)「窮屈な世の中になってしまった」という「嫌な感じが根本にある」のだなぁと改めて。

ひっくり返して言うとこういうことです。なんでイレギュラーであることがレギュラーだと思えないんだろう。逆に、イレギュラーであることがレギュラーなのにね。何らかの規則性なり規範性を押しつけてものを見るから、そこからはみ出ているものは全部「異常」として排除されていくわけでしょう?

だからこそ、人間の能力の限界画定を、経験的レヴェルですることはできないんですよ。まさに刺激―反応が一義的に決まらないのが面白いところで、それを一義的に決めようとしたら、めちゃくちゃたくさんのことを設計し、強制していかなければならない。今起こっているのは、刺激を与えて一様な反応を見せないと、ただちにみんな病気にされてしまうということですよね。

ART CRITIQUE n.03私たちはいつでも逸脱できる―フーコー『カントの人間学』の射程:ART CRITIQUE n.03
王寺 賢太 上野 大樹

by G-Tools

…出る杭は打たれまくり、日常の隅々までマニュアル化と形式化が格差や紛争を抑えこもうとし、そういった細やかな規則をめぐって、かえって無意味ないざこざが絶えないにもかかわらず、というかそれゆえにこそ、いざなんらかの非常事態に直面すると、とたんにフリーズしてしまうような社会。僕もつきつめて言えば、なんでこんなに窮屈な世の中になってしまったのかな、という嫌な感じが根本にあるのは事実です。でもね、だからこそ、そこからの出口は至るところにあると言いたいとも思う。

脱原発「異論」脱原発「異論」
市田 良彦 王寺 賢太 小泉 義之 すが 秀実 長原 豊

by G-Tools
また、先日更新された同じく人文研菊地暁先生の連載人文研探検第6回「ポルトレの人 桑原武夫―その人物描写をかんがえる―」で、「桑原人物論の魅力」が紹介されていましたが、王寺先生の(さりげない)フーコー人物描写も、大変惹き込まれました。私のフーコー観がだいぶ変わりました。
<関連>
人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―第6回「ポルトレの人 桑原武夫―その人物描写をかんがえる―」| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)

そもそも、学問にしろ、芸術にしろ、ある人物の評価は、その仕事、作品の厳正な評価によるべきであり、それを産み出す過程は括弧に入れるべきだという立場にも一定の妥当性はある。そうしたスタンスがある局面において有効かつ必要であることは、桑原自身も認めないわけではない。とはいえ、仕事や作品も、結局は人のふるまいの産物であり、その生理から切り離し得ないというのが、彼のポルトレの立脚点なのだろう。

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://esk.blog9.fc2.com/tb.php/1129-e2fc2d41
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。