わたり終えるか、転げ落ちるか
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
個人的メモ。とっても楽しみ。

 それは本当のことなの? 小人なんてものが本当にいるの? 本当にはっきりと見えたの? 何かのトリックではないの……等々。
 こうした問いの数々は、私たちの「常識」からすれば、まったく妥当なものだろう。普段の生活のなかで、私たちが小人と接する機会など、そうそうあるものではない。道を歩いていて小人に出くわしたり、家に小人が訪ねてくるなどということは、まずありそうもない。「小人」と聞いて私たちが思い浮かべるのは、せいぜい昔話や童話の登場人物、人々の空想の産物としてのトロールや一寸法師でしかないだろう。つまり、私たちの「常識的」な思考のなかで、小人たちの存在は疑いもなく「非現実的なもの」としての位置を占めているといえる。
 このような「常識的思考」は、小人の出現について述べようとしている私自身も、もちろんいくらかははちあわせているものである。それだけではなく、私はさしあたって「社会科学の徒」とされる人類学者として、この出来事を記述しなくてはならないという立場に立たされている。ここで、小人というものの存在が、私にとって単に「異文化にとって暮らす人々の信念」や「想像の産物」でしかなかいと言い切れるようなものであったなら、おそらく問題はそれほど厄介ではなかったであろう。問題は、「フィールドで小人に出会う」という出来事が、私自身にとって具体的な「現実」、あるいは経験的な「真実」であるとしか思われない、という点にある。

…ここでいう「現実世界」とは、原則として人類学者が参与-観察することができ、社会科学的な方法で分析することが可能な世界であるとされる。逆にいえば、精霊や小人や妖術者の棲む世界とは、人類学者が参与-観察することができず、社会科学的な方法による検証が不可能であり、したがって人々の語りを聞き取ることによってのみ再構築されるような領域であるとされる。精霊や小人や妖術者の存在が、このように直接的に「観察されうる」ものではなく、間接的に「語られる」ほかない存在であることが、人類学者にとってそうした存在を想像的なもの、あるいは非現実的なものとみなす根拠となりえたといえる。

 だが、精霊や小人や妖術者などの「超常的なるもの」について語る人びとの語りは、はじめから「虚構」とされるおとぎ話をつむぎだす物語作者の語り口とは明らかに異なっている。人びとの語りのなかで、精霊や小人や妖術者たちはきわめて具体的なディテイルをともなう生き生きとした実在として、また彼らの仕業は日常のレヴェルをはるかに超えながらも、人びとの生活と密接に絡み合った「事実」そのものとして語られるのである。

4812208173フィールドにおける『超常性』のとらえかた:はじまりとしてのフィールドワーク―自分がひらく、世界がわかる
石井 美保, 李 仁子 (編集), 金谷 美和 (編集), 佐藤 知久 (編集)
昭和堂 2008-03-31

by G-Tools
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://esk.blog9.fc2.com/tb.php/1166-205a2f54
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。