わたり終えるか、転げ落ちるか
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■11/22(土)、人文研アカデミー特別シンポジウム「大学とはなにか」に行ってきました。「大学」と「学知」の「あり方」について約5時間にわたる大変白熱した議論でした。大学とは「多様な価値観が闘争する場」であったにも拘らず、「価値」をめぐる思考=(転覆を図る)権威への「挑戦」=「理性」の使用=「批判」精神=「政治」=「自由」、が失われている…そうした状況への強い危惧をひしひしと感じました。問いへの執着、醗酵への時間 - 山室信一

だが、人文科学研究においては、問いと仮説の間を往還しつつ、様々な史料や見解との対話を重ねて確説を導き出すために、醗酵までの時間のゆとりが不可欠の要素となる。決して無駄ではない時間という温床、それを次世代の研究者にいかに担保していくか、今こそ考えるべき時にある。

ロシア帝国の民族知識人―大学・学知・ネットワークロシア帝国の民族知識人―大学・学知・ネットワーク
橋本 伸也

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思想課題としてのアジア―基軸・連鎖・投企思想課題としてのアジア―基軸・連鎖・投企
山室 信一

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たまたま読んでいた「アラフォー男子の憂鬱」の中で、とても関連しそうな指摘だったので、以下引用。

 大きな価値があるものは、その全体像を捉えられるだけの大きな視野をもった人にしかわからないというジレンマが、常にある。たとえば親の価値。親にいちばん世話になっているときは、その価値はわからない。子どもがある程度成長して、親という存在の全体像を捉えられるようになって初めて、自分の親の価値に気付く。大きな価値をもつものほど、その価値を明らかにするまでに時間がかかるという法則が成り立つ。
 教育もその類のもの。教育を受けているときにはその本当の価値はわからない。
 -中略―
 そして、本当に価値のある教育は、その成果が表れて、時間的にも空間的にも広い視野をもつことができるようになるまで、その良さが理解されないというのが、教育という営みがもつパラドクス的な真理である。
 -中略―
 「成績が上がった」とか「合格できた」とかいう目先の成果ばかりを追う教育だけを受けていると、広い視野は養われにくい。 それなのに、この数十年間、「これをやればこういう力が身につく」というような、即効性の高い、効果のわかりやすい教育が優先されてきた。特に最近は、英語をやればグローバル人材が増えるのではないか、理数系に力を入れれば技術大国として復活できるんじゃないか、みたいに。「教養なんてあっても1円にもなりゃしない」と、教養教育をおそろかにするのもそういう流れである。
 目先の経済成長を追いかける経済合理性が、教育の分野にも入り込みすぎた結果だと僕は考えている。

アラフォー男子の憂鬱 (日経プレミアシリーズ)アラフォー男子の憂鬱 (日経プレミアシリーズ)
常見 陽平 おおたとしまさ

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■それにしても久しぶりの京都は相変わらずキレイでした!
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