わたり終えるか、転げ落ちるか
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 経験のある方はご存じだろうが、「私の主張は間違っている可能性がある」と思っている人間たちが集まると、その議論はたいへん迅速に進行し、かつ内容は濃密で深厚なるものとなる。
 どうしてそういうことになるのか。
 そういう場合の議論においては、それぞれの論者たちは自説の「正しさ」よりもむしろ、自説の「危うさ」の定量を優先させるからである。「私たちはどのようなデータを見落としているか?」「私たちは状況判断にどれほど主観的願望を交えているか?」という点検がそのような議論における主な議題となる。
 ―中略―
 「私は正しい、お前は間違っている」という議論の立て方をする人間は、自分の立論の整合性と他人の立論の破綻を過大評価する傾向を持つ。一方、「未来予測が外れる蓋然性を最小化する」ための議論では、全員が自分たちそれぞれの主張はどこに「穴」があるのかを徹底的に吟味するそれは「私はどんなふうに賢いか」ではなく、「私はどんなふうに愚かであるか」に焦点化した思考である
 ―中略―
 だから、データの管理について中立的であろうと望むなら、決して「自説の正しさ」の証明を優先させてはならない。むしろ、「私が見落としていること」を探し出し、それによって「自説」を修正し、改良し、より汎用性の高い理説に書き換えてゆくべきなのである。
 言うのは簡単だけれど、これはまことに困難な仕事であると言わねばならない。
 しかし、そのような知的態度を保つことによってしか、「折り合い」というものは成り立たない。「折り合いをつける」とか「妥協する」という言葉を多くの人々はネガティブな意味で用いるけれど、私は「妥協」というのはかなり高度な知的達成であると考えている
 それはAさんとBさんの二人の対立的主張を含んで代表するからではない。
 そうではなくて、「妥協」が形成される過程で、無言のうちにではあれ、AさんBさんの両方が「自分の主張は間違っている可能性もある」ということを承認した、ということをそれは意味するからである

子どもは判ってくれない子どもは判ってくれない
内田 樹

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