わたり終えるか、転げ落ちるか
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 驚くべきことだが、レヴィナスにおいて、倫理を最終的に基礎づけるのは、私に命令を下す神ではなく、神の命令を「外傷的な仕方で」聴き取ってしまった私自身なのである。
 私自身が私自身の善性の最終的な保証人でなければならない神への恐れが、神の公正な裁きの予感が私を善へと誘うのではなく、善への志向は私の内部から発露するものでなくてはならない
 私がほんとうにみずから「主」を追い払い、その罰を「主」から受けることを恐れているとしたら、その有責感は単なる懲罰への恐怖にすぎない。私は善であるのではなく、単に恐怖しているだけである。そのような私はみずからの良心に基づいて善を志向する成熟した「大人」ではなく、外部にある戒律に盲従して、処罰をまぬかれようとする「幼児」にすぎない。だから、私が「主」を追い払うという起源的事実は、善性を基礎づけるためには、あってはならないことなのである。
 そうではなくて、私の善性を基礎づけるためにこそ、私は「かつて私は主を追い払った」という起源的事実の記憶を進んで引き受けるのである。実際に罪を犯したがゆえに、有責性を覚知するのではなく、有責性を基礎づけるために、「犯していない罪」をについて罪状を告白するのである。それが「私は自分が犯していない罪について有責である」という言葉にレヴィナスが託した意味である。

他者と死者―ラカンによるレヴィナス他者と死者―ラカンによるレヴィナス
内田 樹

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