わたり終えるか、転げ落ちるか
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 彼がなぜ秋葉原で事件を起こしたかということも、この承認の問題と関連していると思います。一九六八年の永山則夫事件のときに、社会学者の見田宗介さんが「まなざしの地獄」という論文を書いている。見田さんは社会心理学的な調査を引用しながら、当時東京へと流入した青少年が抱える不満の最大要因は、個室がないことと休日がないことだと述べています。つまり、一人きりになる場所と時間がほしい、他人からのまなざしのないところに逃げ込みたいという、ものすごく強い欲求があったというのですね。永山をはじめ、底辺に近い若年労働者にとっては、都会のまなざしこそが地獄であったわけです。
 それに対して、今回の事件はまったく逆です。彼にとっては、まなざしのないことこそが地獄だった。ネット上で何とかして他者のまなざしを得ようと書き込みをしても、ちっとも注目を浴びない。そういう状況の中で、まなざしが一番ある場所だと考えた秋葉原で、確実にまなざされる方法で事件を起こした。彼なりの歪んだ仕方で、まなざしという承認を求めたように思います。

アキハバラ発〈00年代〉への問いアキハバラ発〈00年代〉への問い
大澤 真幸

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以前はまなざしの「過剰」が問題だったのに、まなざしの「不足」「欠落」が問題化する現在。うーむ。

この変化の背景は、以前も引用させて頂いた鈴木さんの指摘↓がやはり大きいと思います。この問題、2009年以降もまだまだ引っ張りそうであります。

 ほんとうの幸せはどこにあるのか。それは、私が決めることでしかない。私たちの劣等感や自己否定の感情は、それを決められず、他律的な幸福に依存することから、それを「甘え」と罵られることから生じる。サルトルの言葉をもじって言えば、私たちは「自由という幸福の中に投げ込まれている」のだが、その幸福は、私が私として承認しない限り、どこまでも空虚なものでしかないのだ。
 私たちがその実存の問いを「そんなの関係ねぇ」と言って切り捨てられないのはなぜか。それは私たちが、「見られる側」として対象化されているからだ。不幸な世代、当たり前のものを失った世代、だけれども頑張っている世代、そうした私たちに向けられるまなざしは、結局のところ「ほんとうの幸せ」探しを、避けがたい実存の問題として、私たちに引き受けさせるものになっている。

サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書)サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書)
鈴木 謙介

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コメント
この記事へのコメント
ただその笑い方だけ 気にさわっただけさ 
だから目の前にナイフ ちらつかせただけさ 
それなのに本気になるから あまりおれを悲しませるなよ

ただおまえの横顔が まぶしかっただけさ 
だからいたずらに気分で からかっただけさ 
それなのに本気になるから あまりおれを悲しませるなよ

 あふれ出した人の流れが凍りつき
 遠まきにおれを囲む午後の街角
 色あせてるグリーンベルトに
 投げ捨てられたナイフ

刃こぼれのナイフ抱いた 錆びれ顔の群が 
凍える目つきでおれに 肩をとがらせてる 
とぼけるなよ冗談キツイぜ あまりおれを本気にさせるなよ

 アメ横でやっと手に入れた
 気に入りのナイフが
 狂った手許をはじき返す午後の街角
 排ガスまみれのグリーンベルトに
 投げ捨てられたナイフ

PANTA&HAL 『ナイフ』
2008/12/23(火) 04:48 | URL | PULSTAR #-[ 編集]
ついつい
職場でお話して返信した気になってました…(- -;。

うーんそれにしてもそんなに前の曲とは…!ビックリです。
2008/12/26(金) 00:19 | URL | 啓介 #6OcbfI92[ 編集]
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