わたり終えるか、転げ落ちるか
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仲正昌樹とともに読む<思想書古典>徹底読解講義 ヴァルター・ベンヤミン 『“危機の時代”の思想家を読む』」の第2回。「翻訳者の課題」の後半です。今回も面白かったです!でも前回も今回も一応、予習と言いますか一通りは読んでから参加するのですが、どうしてここまで理解の深さが違うのかと愕然とします…。

以下自分なりの理解(たぶん間違ってそう)を含んだメモ↓

・ベンヤミンの翻訳論=文学(とりわけ詩)の翻訳論である。※機械のマニュアルの翻訳のような、単純な「情報の伝達」ではない。
・Fortleben(独)「死後の生」の「Fort」は「さらに」「続けて」の意味。生の「連続」という理解がカギ。
・生「leben(独)」を生み出すのが「生命」であり、そこにあるのは「生命」と「生命」の「連続」である。
・文章の「Fortleben」とは、言わば「精神的な生(生活)」の「連続」である。そしてその「連続」によって「共有」が生まれる。
・翻訳は、個々の「目的連関(AはBのために/BはCのために/CはDのために…)」を包括するという目的を有する。そしてそのような目的を設定できるのは「神」である。
・「聖書」を「Bibel(独)」とは書かず、「聖なるエクリチュール」と書いているところがミソ。
・聖書の著者は誰か?実際は宣教師または神学者。だが、(神としての)イエスと見なさざるを得ない。
・「聖書」とは言わば「神の啓示」であるが、特定の言語で書かれた書物を「神の啓示」と言えるか?
・translate「翻訳する」とは「あるものをあるものへ置き換える」という意味。ただしあるものAとあるものBは同じか?このあるものAとあるものBの擦り合わせの繰り返しによって、神に漸近できる。
・メシア的な終末「Ende(独)」。(バベルの塔以前の)純粋言語を目指して変化している。
・ある言語→(翻訳した)言語→…と言語は「高次に」、真の(真理の)言語へと向かう、方向性はあるものの、しかし翻訳はイローニシュ(=アイロニカル)にならざるをえない。
・【(自分なりの)結論】翻訳は、純粋言語との距離感をよりうまく「示唆」できたかどうかで、その優劣が決まる。

あの本質的なものは、諸言語自体のなかではもっぱら言語的なものおよびこれの変遷と結びついて、純粋言語そのものであるとすれば、諸構築物のなかでは、重苦しい異質な意味をまといつかされている。この意味から本質的なものを解放して、象徴するものを象徴される当のものに転化させ、純粋言語の形成を言語の運動に取り戻すことが、翻訳の、力強い無二の能力である。もはや何ものをも意味せず表現しない純粋言語は、言栓を絶する想像的な語として、あらゆる言語において志向されるものだけれども、この純粋言語のなかで、あらゆる伝達、あらゆる意味、あらゆる志向は、それらが消失することを定められている層へ、ついに到達するのだ。そしてまさしくここから、翻訳の自由は、新しい高次の正当性をもつことが証明される。意味からの解放が忠実の課題にほからならなかったが、そのような意味を伝達することには、自由の存立の基盤はない。むしろ自由は、翻訳言語自体において純粋言語をめざすところに示される。他言語のなかに呪縛されていたあの純粋言語を自身の言語のなかで解き放つこと、作品のなかに囚われていた言語を改作のなかで解放することが、翻訳者の課題である。この課題のために翻訳者は、自信の言語の腐朽した枠という枠を打破する。

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)
ヴァルター・ベンヤミン

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行きの電車で読んでいたら、「思想家」や「知識人」に影響を受ける彼は「有害」と書かれていました。ショックー。
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