わたり終えるか、転げ落ちるか
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第142回新宿セミナー@Kinokuniya『日本辺境論』(新潮新書)刊行記念 内田樹講演会 - 日本人は辺境人である -」に。内田センセの講演会はちょっと久々かも(釈先生との池袋のジュンク堂でのトークセッション以来だと思います)。冒頭のエピソードでまず「掴み」、そして「友愛」から「贈与経済」への流れへあれよあれよと90分。
日本辺境論 (新潮新書)日本辺境論 (新潮新書)
内田樹

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・舞台の大道具を担当していた内田センセ。ある舞台の主演の方が若松孝二監督の映画に抜擢され、内田センセが急遽代役をすることに(紀伊国屋ホールのエピソードとして冒頭に)。
・さらにはNHKから(ガタイが大きいからという理由で)「暴走族の総長役」で出演依頼が来たのに、当時学者を目指していてイメージを守りたかった内田センセが断ると、その役を小林薫が引き継ぐことに(会場驚)。
・「日本辺境論」は、丸山真男、岸田秀、土居健郎等、優れた日本人論を噛み砕いたもの。
・「有名人」と「無名人」を決めるのは日本では「テレビ」(に出るか出ないか)くらいしかない。ましてやテレビを見る視聴者には「身銭を切る」という感覚がないため、しばしば好意的に人の話を聞いてくれない。
・講演会を聴きに来る人みたいに、「身銭を切る人」は、自らの判断(=今日、紀伊国屋ホールで内田センセの講演を聞く)の適切性を証明するために「好意的に聞いてくれる」(会場笑)。
・昨日は中沢新一さんとトーク。今田舎で農業をしているらしい。内田センセもブドウ園を淡路島に持っているらしい(ワインが好きだから)。
・ヨーロッパの田舎を旅してきた知人が「木を植えたい」「土をいじりたい」と。「エコ」主張者のような「うさんくさい」言葉ではなく、「身体実感を伴った」言葉だった。
・内田センセの学生にも(かつては「キャリアOL」を志向する学生が多かったが)「農業」「漁業」がやりたいという学生が増えてきたとのこと。
・要するに「第一次産業に戻る」流れがある。「スローダウン」、(プリミティブな)「贈与経済」へと流れている。
・直近の「中央公論」に、所得の低い人に金を(100万弱)「バラまけ」という意見があったが、大きな経済枠組としては、とてもオーセンティックな議論。
・雑誌「SIGHT」で(渋谷陽一さん、高橋源一郎さん、内田センセの3名で)「友愛」について議論。
・そもそも「友愛」は「政治概念」ではない。
・「友愛」とは「空想的社会主義」の概念であり、社会の階層が固定化し、流動性のないことが前提としている。
・「社会的フェアネス」とは、貧しい階層を救うこと。そして真に抑圧されている人こそ、革命主体となる権利を有する。
・「最も迫害されている人が、革命の主体となりうる」という考えは、「最も迫害されている人」探しに終始してしまって、結局「現状肯定」と同じ。
・「おひとりさま」という発想は「強者連合」。全員がevenな関係の親密圏。そこに弱者がいてはいけない。
・フェミニストは全ての集団(家族、地域…)を解体するのがその役割だったことと関係。しかしそれは「冷たい社会」では。
おひとりさまの老後おひとりさまの老後
上野千鶴子

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悲しき熱帯 (中公クラシックス)悲しき熱帯 (中公クラシックス)
Claude L´evi‐Strauss

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・そんな世の中では「友愛」という19世紀的なスローガンが求められる。
・日本には戦後大きな転換点が「2回」あった。
・一つは「1964年」。「東京オリンピック」の年。東京から「江戸的なものがなくなっていく」悲しい記憶。日本橋の上に首都高ができたときはショックだったそう。
・もう一つは「1984年」。ジョージ・オーウェルも村上春樹も作家的直感でこの年が重要だと感じたのだと思う。ターミネーターの冒頭シーンも「1984年」。
・この年には「ロサンゼルスオリンピック」が。このオリンピックは、初めての「商業主義的」オリンピックだった。例えば開催時間をテレビに合わせる、等。
・「1984年」から四半世紀(=25年)を経た今年、「Back To Past」の流れに。古典芸能(能楽、三味線等)や仏教などを志向する人が増えた。
・こういう流れに敏感なのはいつも若い女性。ちなみに最も鈍感な世代は50、60台男性。
・経済活動が「贈与経済」へ。
・「象徴価値」「記号」の時代であった80年代から、買った物(商品)で「自分が何者であるか」を示す。これは言ってみれば「需要が無限」にあるということ。
・現在「ギルティ・フリー」商品(=環境負荷の少ない商品)が注目を集めている。
・しかし、「自分が何者であるか」を「商品を買うという行為」で、という設定にそもそも無理がある。縮小して当然。
・「自分が何者であるか」は、「余ったら((身体欲求の限界を超えてしまったら)誰かに回す(贈与する)」という形で満たされる。
・「贈与経済」では、「あげる(贈与の)宛先」を考える、そのような「顔」が具体的に思い浮かぶ、そのような「中間共同体が必要」。今後の経済活動を支えるのはこういうタイプの人々。
・農業は「100年、200年先の日本人の『顔』を思い浮かべた人」が志向する。
・「贈与経済」の予言はたぶん当たると思います(by 内田センセ)。
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