わたり終えるか、転げ落ちるか
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先週の講演の補足のようなエントリが。「贈与者(=パッサー)」にはあこがれますが、残念ながら僕には「市民的成熟」も「高い共生能力」もありません…。
今年最後の死のロード - 内田樹の研究室

ほとんどのみなさんは、「交換はむずかしいが、贈与は簡単だ」と考えている。
人にもの上げることなんか誰にもできるが、商品と代価を適正なしかたで交換することはむずかしいと思っている。
まるで逆である。
人にものを贈与することの方がずっと難しい。
現に、4歳児でもコンビニで数千円の買い物を自己責任で実行することは可能だが、同じ子どもが数千円の贈与を自己責任で実行し、贈与されたものと互恵的な人間関係を立ち上げることはほとんど不可能である。
それは「パスすること」だからである。
パスを出すためには、「スペースのあるところに駆け込む」用意のあるプレイヤーを識別して、そこに過たず「贈り物」を送り込まなければならない。
「パス」を出せる人間は限られている。
あなたがもし、ここに1億円もっていたとする。
ところが、あなたはすでに「金で買えるもの」はほとんど持っている。
では、この1億円を何に遣うか?
この問いを読んで、「え・・・と」と考えた人間には残念ながらもう贈与者の資格はない。
それはバックからパスを受けてから、「え・・・と」と考えて、座り込んでいるフォワードと同じようにナンセンスな存在である。
贈与者はいつも「送り先」について考えているからである。
というか、いつも「送り先」について考えているもののことを贈与者と呼ぶのである。
手元に金があろうとなかろうと、誰に何を贈与すべきかをつねに考えている人間だけが「贈与者」の資格をもつ。
それはすぐれたボールゲームのプレイヤーが手元にボールがあろうとなかろうと、受けたボールのパスコースの無数の可能性についてつねに想像しているのと同じことである。
すぐれた「パッサー」であるためには、パスを受け、さらに次のプレイヤーに贈る用意のあるすぐれた「パッサー」たちとの緊密なネットワークのうちに「すでに」あることが必要である。
贈与経済は市民的成熟と高い共生能力をプレイヤーに要求する。

講演中の内田センセの言葉を借りますと、僕は「自分が何者であるか」を「商品を買うという行為」でひたすら追っかける陳腐な消費者なのです。でもいつかそこから抜け出せればいいなぁと思ったりなんかしてたりします。

「本当の自分」を見つけたいって言うけど
「生まれた意味」を知りたいって言うけど
僕の両手がそれを渡す時
ふと謎が解けるといいな 受け取ってくれるかな

GIFTGIFT
Mr.Children

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