わたり終えるか、転げ落ちるか
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仲正昌樹とともに読む<思想書古典>徹底読解講義 ヴァルター・ベンヤミン 『“危機の時代”の思想家を読む』」の第5回。全6回の講義ですので、残すところあと1回です。寂しい限りです。今回は「複製技術の時代における芸術作品」の前半。「アウラ」です、「アウラ」。
ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)複製技術の時代における芸術作品 - ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)
ヴァルター・ベンヤミン

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おそらくこの講義は書籍化されるっぽいですが、まさにこの講義そのものが「現前性」「一回性」に満ちたものでありました。

・①初稿、②第二稿(本編)、③仏訳(by クロソウスキー)、④最終稿(←見つかるまでこれが「第二稿」だと思われていた)の計4つの版が「複製技術の時代における芸術作品」に存在する。

一九三五年に初稿が成立し、翌三六年、ここに訳出した第二稿が書かれた。フランクフルトからニューヨークへ亡命した社会研究所が、パリで刊行していた紀要『社会研究誌」のために執筆されている。同誌に三六年に掲載されたのは、この第二稿をもととして、かなり改訂・削除されたフランス語訳であり、訳者はピエール・クロソウスキーだった。改訂・削除は、ほとんど研究所側の意向によっている。

・文中「社会研究所」は1923年に創立されたもの。フランクフルト学派の人たち(ホルクハイマー、マルクーゼ、アドルノ…)が所属。マルクス主義に精神分析の理論を応用。いわゆる「暴力主義革命」としてのマルクス主義を志向しない。
・1行目にベンヤミン自身の態度が表明されている。

マルクス主義が資本主義生産様式の分析を企てたとき、この生産様式は初期の段階にあった。

・1948年に「共産党宣言」が出版された頃、マルクス主義者が「芸術」とどう接するか(=望ましい芸術とは)、という問いを抱えていた。
マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)共産党宣言 (岩波文庫)
カール・マルクス

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・「マルクス主義のリアリズム=プロレタリアートの解放」という「権力奪取後のプロレタリアートの、ましてや無階級社会の、芸術にかんする諸テーゼではない」。
歴史と階級意識 (イデー選書)歴史と階級意識 (イデー選書)
ジョルジュ・ルカーチ

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・そもそも「複製」には、①オリジナル→コピー、②コピー→コピー、の2通りが存在する。
・「複製芸術」と一言で言っても、「何」を複製する技術なのか?20世紀初頭だと、「映画」や「写真」では。
・写真は芸術作品か?絵画や彫刻と比べて楽ではないか?ましてや機械の力を借りている。また、報道写真と芸術写真の違いとは?
図説 写真小史 (ちくま学芸文庫)図説 写真小史 (ちくま学芸文庫)
Walter Benjamin

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・浮世絵は「複製芸術」である。(インスタレーションは?)
・「技術」⇔「産業」⇔「芸術」…複製技術は、これらの循環関係を密にする力がある。
・「今、ここ」(現前性)に芸術の価値はある。芸術の本質、とも言える。
・「今、ここ」(現前性)とは、「確認するための基準」「疑いえないもの」である(=この私にとっては確実に存在している、という感覚)。
・人はなぜ美術館に行くのか?(=実物を見に行く必要はあるか?)
・複製のメリット=普通の視野、姿勢では見えないものが見える。

第一に、技術による複製はオリジナルにたいして、手製の複製よりも明らかに自立性をもっている。たとえば写真による複製は、位置を変えて視点を自由に選択できるレンズにだけは映っても人間の目には映らない眺めを、オリジナルから抽出して強調することができる。あるいはまた、引き伸ばしや高速度撮影の特殊な手法の助けを借りて、普通の目では絶対に捉えられない映像を定着することもできる。

・「生の知覚」と「メディア化された知覚」の対立。結局「アウラ」は「生の知覚」を欲する人にしか見えないのでは。小林秀雄ならばオリジナルにこだわるだろう(笑)。
・「一回性」(アウラ)に対して、「反復可能性」は感性の民主化につながる。
・表象文化論の元祖である(と言われている)ベンヤミン、ナチスから逃げ回っていたのだから、多少羅漢的なことを言うのは仕方がない。
・芸術の「真性の価値」とは。芸術には「礼拝価値」と「展示価値」がある。前者は「魔術」的な要素も含む。たとえば肖像写真に写っている「顔」は、「今、ここ」性を出している。
・自然物にはない、(撮影者の)欲望の反映、(政治的意義を持つ)主観、が「写真」には表れる。
・「説明文付き芸術」である「ダダイズム」も同時期に出現。
・モンタージュ(=自然に起こったことを再現するのではなく、組み合わせる)は、そもそも人の知覚の標準的なあり方なのである。

完成した映画は、さいころの<一振り>による創造物なのではけっしてない。映画はじつに多くの映像や場面からモンタージュされるものであって、モンタージュするひとは、その映像や場面の選択権を握っている-のみならず、撮影の過程でも最初から、思いどおりの映像ができるまで、好きな撮影をやり直すことができる。-中略-モンタージュの可能な芸術作品の時代にあっては、彫刻が没落することは避けられない。

・人の知覚とメディアの変化によって、写真(又は映画)が芸術のように見えてしまう。
・カメラが対象を何度も撮り直せる状況で再現(=モンタージュ)したものを、観客は見る(そこに身体性は存在しない)。一方一回性芸術は、間に(カメラのような)仲介を置くのではなく、観客は直接見ることになる。
・映画を撮るとき、映画俳優の動作を撮るのではなく、映画俳優の具体的動作が機械によってどう撮られるのか(=滑稽さ、リアルさ、カッコ良さ、等)を追求するのである。
・自己疎外に陥った人は、身体性を最大限に発揮した映画の(芸術-人々との関係における)可能性に賭けている。

人間が機械装置をつうじて表出されることによって、人間の自己疎外は、きわめて生産的に利用されることになった。この利用がどれほど生産的なものかは、つぎの点から分かるだろう。俳優が機械装置にたいして抱く異和感は、ピランデルロが述べているように、鏡のなかに映る自分の映像にたいする異和感と同種のものである。ロマン派のひとびとは、こういう映像のもとにとどまることを好んでいた。ところが、この映像を俳優から切り離して、よそへ移すことが可能になったのだ。

<関連>
翻訳者の課題 - 人生はタイトロープ
翻訳者の課題(後半) - 人生はタイトロープ
暴力批判論 - 人生はタイトロープ
歴史の概念について - 人生はタイトロープ
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