わたり終えるか、転げ落ちるか
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仲正昌樹とともに読む<思想書古典>徹底読解講義 ヴァルター・ベンヤミン 『“危機の時代”の思想家を読む』」の最終回。今回は「複製技術の時代における芸術作品」の後半。昨年9月からの連続講義ももう終わり…。寂しい限りです…。
ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)複製技術の時代における芸術作品 - ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)
ヴァルター・ベンヤミン

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それでは名残惜しいですが最後のメモメモ…。

・「アウラ」とは、芸術にまつわる「いま、ここ」。そこに「人格」があってこそ輝く。この「アウラは複製されない」という発想こそ、ベンヤミンの独自性と言える。

人間は初めて、かれの生きた全人格をもってではあるにせよ、しかし人格のアウラを断念して、活動せざるをえない状態に立ち至った、と。これこそ映画の働きである。なぜならアウラは、人間が、いま、ここに在ることと切り離せない。アウラの複製などはない。

・つまり「アウラ」を「相対化」「分散化」「拡大化」する働きが「複製技術」にはある。
・例えば、ここ10~20年くらい、(イラク、アフガン等)「TVが戦争をバーチャル化した」とよく言われているが、「アウラ」の「相対化」「分散化」「拡大化」と関連。

かれの演技は一貫して続けられることがまったくなくて、多くの短い演技の切れはしから構成される。

・「舞台:統合された人格」⇔「映画:場面ごとに分解」という構図。
・「機械装置による労働からの疎外」。マルクス主義者としては克服すべき状態。背景としては1923年「歴史と階級意識」(ルカーチ)が出版されたころ。
・映画の機械装置は「疎外」に拍車をかける。
・シェリングの「主体」が「客体」を通して(無意識の)「自己」を見る「自己二重化」論。「作品を見るということ」=「自己の無意識の確認」という考え方。
・初期マルクスの疎外論(またはドイツ観念論)は↑のシェリングの発想に近い。
・労働を通じて自己の無意識を生産物に見出す(≒ヘーゲルの「主体」⇔「客体」論)。
・「より高次な自己認識をもたらす」のが「労働」。
・映画の構造:俳優←機械装置←大衆(のまなざし)。「内なる他者」(=自分)との(自己完結的な)出会いはあるが、「(ほんとうの)他者との出会い」はあるか、という問い。これを可能にしたのが映画装置であり、これには「政治的価値」がある。

しかもかれの演技をコントロールするこの大衆は、かれが演技を終えるまで、かれの目に見えないし、まだ存在していない。

・「政治家」と「(作品としての)政策」と「大衆」との関係もこれに近い。

観客崇拝もまた、スター崇拝と並んで、大衆の心性の腐敗を促進しているが、この腐敗した心性こそ、ファシズムが大衆のなかに、階級意識に代えて植えつけようとしているものにほかならない。

・客=良い商品を提供されるのを待っている(消極的側面)。世界変革プロセスへの(主体的な)参加は?
・背景として、「ベルリンオリンピック」の民族的な一体感を表わした大衆の映し方、または、「無限に熱狂が広がっていく」ようなイメージを生み出す、映画での群集の映し方、など、映し方によって、あるイメージを与えるような手法が出てきた時期。
・↓の記述はネット社会到来の文脈と似ている?

日刊紙は「投書欄」を設けはじめた。こうしていまでは、ヨーロッパのほとんどすべての労働者は、その労働の経験や、苦情や、ルポルタージュなどをどこかに公表するチャンスを、基本的にもてるようになっている。それゆえ、作家と公衆とのあいだの区別は、基本的な差異ではなくなりつつある。その区別は機能的なもの、ケース・バイ・ケースで反転しうるものとなっていて、読み手はいつでも書き手に転ずることができる。

・「資本主義化」とは「労働」=「従属」という図式を(機械装置によって)もたらす。

いいかえれば、スタジオでは機械装置が現実のなかへは深くはいりこんでいるので、現実を純粋に見る視点、機会という異物から解放された視点は、特別の位置に置かれたカメラによって撮影をおこない、さらに同種の撮影をほかにも多くおこなった上で、それらのフィルムをモンタージュするという、特殊な手続きの結果としてでなければ、生まれえない。

・「直接の現実の眺め」は「青い花」…「理想」のことである。
・つまり、現実を機械(技術)を使って再構成している。
・「全体」を見るということについて考えてみる…例えば、「政治」の「全体」を見るとは?国会に傍聴に行けば「政治」の「全体」を見ることになる?街頭演説を聴けば「政治」の「全体」を見ることになる?
・実はわれわれの現実認識も「モンタージュ」なのである。
・「クローズ・アップ」という手法は、意識していなかった「現実」を見ることができる。これは「無意識の資格を体験する」ことと同義。
・カメラワークの良さは、「潜在的な願望」を見せてくれる。
・機械装置によるこうした手法は「異音心理」を含めた自己認識を可能とする。これは精神療法的な効果がある。但し、この考え方は今現在では良い風に捉えられないだろう。
・ジークフリート・クラカウアーの「ファシズムの映画利用について」述べた評論が参考に。
大衆の装飾 (叢書・ウニベルシタス)大衆の装飾 (叢書・ウニベルシタス)
Siegfried Kracauer

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・ダダイズムは「映画」の先取り?
・「触覚的」は原文では「tacktisch(独)」、これは英語では「tactical(英)」を指し、「戦術的」の意味。指揮者が用いる「tact」が語源。この言葉はtactus「触覚」から来ている。つまり、「触って感じる」「動いてリズムを取る」の意味。
・ワイマール期は「建築」=「芸術」であった。

建築において学ばれるこのような受容のしかたは、しかも、ある種の状況のもとでは規範的な価値をもつ。

・例えば、神社・寺にアウラを感じる場合。非常に細かく見れば、ゴミや虫の死骸も落ちているかもしれないが、信仰心のある人たちはそれを見ようとはしない。
・あらゆるものの映し方には規範がある(例えば、皇居の映し方)。
・技術によって人間にできないことを実現。機械=人の潜在的願望をかなえるもの。
・但し、表現を与えられているだけで実は何も与えられていない。
・「アウラの凋落」=「みんなが芸術家!」…ベンヤミンはこの事実を評価している。
・無意識に規範化しているものを解体・再構築するからである。
・技術が資本によって逆に「新しいアウラ」を形成する。それが戦争という形に表れている。
・ワーグナーの芸術観「gesamtkunstwerk」とは、「人間の全ての知覚を動員する芸術」、のこと。
・「(機械)技術」と「アウラ」にまつわる話は、最後は必ず「政治の耽美化」が勝つ。例えばインターネット。最初は可能性に満ち溢れているイメージだったが、2ちゃんねるなどネガティブ情報が優勢になる。
・【まとめ】「政治の耽美化」が勝つ理由として、いっつも「メディアの力」なのか、「大衆がバカ」なのか、という二項対立を繰り返しているだけ。ここを見極める研究が必要なのでは。
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