わたり終えるか、転げ落ちるか
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1998年出版の「日本問題外論―いかにして私はデジタル中年になったか」より。

 なぜって、あの人たちは、コンピュータはキライだから、コンピュータについて知る必要はないと思っているからだ。
 こりゃ、鉄壁だ。
 無知だから嫌いで、しかも、嫌いだから無知のままでもかまわないと思い込んでいるこの人たちを説得することは、不可能だ。
 まったく。
 新しいものが現れると、必ず新しい不適応が発生する。
 困ったことだ。
 高度経済成長期を陰で支えた科学万能主義が公害や様々な不適応を生んだことへの反省からなのか、九〇年代の時代思潮は、反対側に流れている。つまり、科学に繭をひそめ、進歩に疑義を差し挟み、あらゆる発言の語尾に「なのでしょうか」をつけて疑問を表明する態度が流行しているわけで、「人の思い上がり」とやらを指摘する(って、こやつの思い上がりは、人類以上だな)ような人が珍重されるってわけだ。
 まったく、困ったことだ。
 が、困ってばかりもいられない。
 誰がどう言おうが、結局我々は新しいメディアとともに歩むことになる。我々のこどもたちも、そうしたメディアを生来の環境として育つほかに選択肢を持たないだろう。 とすると、我々は、良識派の皆さんが眉を曇らせている通りに、ますます自然か遊離していくのだろうか。
 そうかもしれない。
 が、私は、新しいメディアとともに育つであろう新しいこどもたちを信頼している。
 いずれにしろ、自然なるものとの共存も含めて、我々は、メディアぐるみでかかわらざるを得ないのだし、また、そうでなければ、こんな大問題は解決不能なのだ。
 それでも、良識派は、眉を曇らせるだろう。
 かまうことはない。連中はいつでも眉を曇らせてはいるが、実際のところ、目玉が曇っているだけなのだから。

日本問題外論―いかにして私はデジタル中年になったか日本問題外論―いかにして私はデジタル中年になったか
小田嶋 隆

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まったく、いつの時代もおんなじことの繰り返し。
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